■神を「アバ、父」と呼ぶこと
福音書の多くの箇所に、イエス様の祈りが出てくる。その事実は、イエス様が隠れたところで父と交わられただけでなく、弟子の前でも祈られたことを示唆している。弟子たちはイエス様がどう祈られたのかを身近で聞いて、それを記録した。
弟子たちは、イエス様がどういう言葉で祈られたのかを学んだだけでなく、父の前でどう生きたのかを見た。父との会話である祈りは、イエス様の生活そのものだった。あるときは、喜びに溢れて、あるときは気力を振り絞って祈られた。
とりわけ、神を「アバ」と呼ばれたことに、弟子たちは衝撃を受けたに違いない。「アバ」とは、子どもが父に向かって親しみを込めて呼ぶ普通の言葉だ。超越神を「おとうちゃん」と呼ぶなんて、なんて身の程知らずな奴だと、多くの人は考えた。
敵対勢力は、正にそれを問題にした。「ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」(ヨハネ5章18節)
しかし、弟子たちは、イエス様が父との間に持っておられた豊かな交わりを見、それをうらやましいと思って、イエス様に頼んだ。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(ルカ11章1節)
私たちは、創造主を「アバ、父よ」と呼べる幸いに、どれだけ自覚的だろうか。私の父は、世界を創造し、私の人生をご自身の作品だと宣言される方なのだ。罪赦された被造物である人間が、創造主をアバと呼べることが福音の核心である。
世界の人々は、「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ11章8節)と叫んでいる。父なる神との関係を深め、その関係を生活に映し出すことで、キリスト者は人々に、父を見せることができるのである。
ローマ8章15節
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。