■「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ」を見分ける
ヨハネ17章にあるイエス様の祈りを読めば、イエス様が弟子たちをどれだけ慈しんでおられたのかがわかる。この祈りの数時間後、自分を見捨てて逃げ去る弟子の1人ひとりに、イエス様は深い愛を注がれた。ユダもまた例外ではなかった。
愛されるという意味では、弟子は皆平等だった。しかし、弟子集団には厳然とした区別があって、イエス様はより内輪の集団と長く時間を過ごされた。十二使徒は特別だった。その中でも、ペテロとヤコブとヨハネの三人は、いつも主のお伴ができた。
逆に言うと、肝心なときにアンデレははずされた。彼は、「ペテロを最初に誘ったのは、どこの誰だと思ってんだ」とか、「ヤコブとヨハネは兄弟で主に仕えているのに、僕だけは呼んでもらえないのか」と思ったかもしれない。
義理人情に左右されず、ふさわしい人を見分け、そこに自分の時間の大半を投入するという焦点の絞り方を、イエス様から学ぶことができる。「他の人に教える人」を育てるには時間がかかる。平等に時間を使っていると、育成の時間が確保できなくなる。
時間の過ごし方にメリハリを付けるという決断は、「悪平等主義」に慣れた日本人には難しいだろうな、と思う。しかし、自分にとって誰がペテロ、ヤコブ、ヨハネなのかを正しく見分けることに、それに続く弟子育成の連鎖反応の成否がかかっている。
第2テモテ2章2節
多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。