■「建築家」兼「現場作業者」

 

シンクタンクを立ち上げて13年になる。思い返すと、設立当初のスタッフの1人は、すぐれたデータ管理のスキルを持っていた。十年を過ぎた今も、彼女が作ったコンピュータソフトを使っているほどだ。

しかし、残念ながら、そのスキルは継承されなかった。彼女が退職したときに、十分な引き継ぎがなされなかったからだ。そのため、優れたシステムがあるにもかかわらず、機能を限定的にしか使えない状態が続いた。

システムが持つ機能が十分に発揮されるためには、それがどう運用され、どう引き継がれていくかという視点が必要だ。仕上がった設計図を眺めて悦に入っても、仲間うちで称賛されても、現場で機能しなければ意味がない。

美しい設計図を書くことは、運用の実を継続的に挙げることに比べると、それほど難しいことではない。しかし、現場と設計室を行き来しながら、絶えず設計を修正する作業には、時間と手間と謙遜と柔軟性が要求される。

パウロは、自分を建築家にたとえている。モーセが「幕屋の型」(出エジプト25章9節)を示されたように、パウロも教会の設計図を見せていただいた。そして、イエス様という教会の土台を据えた(第1コリント3章11節)。

イエス様ご自身が、「わたしが道」(ヨハネ14章6節)だ、と自己証言しておられるところから、パウロが据えた土台とは、イエス様が模範を示された「神に服従する道」だとも解釈できる。この建築家は、イエス様の生き方を自分の汗と涙で伝えた。

深遠な神学も、洗練された宣教戦略も、模範なしには現場で実を結ぶことはない。生き方は、インターネットでダウンロードするわけにはいかない。日々十字架を背負う生活の現実は、一緒に生きることなしには伝わらないのである。

 

ヨハネ12章24節
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。