■映画「ダイハード」に見られる和解のモチーフ

 

「ダイハード」の再放送を見た。時代は1988年。日本の企業が米国の不動産を買い占めていたバブルの時代だ。初めて見たときには、約20年後に第4弾が上映されるほど続くとは思わなかった。バブルがその後すぐにはじけるとも思わなかったが…。

主人公がひょんなことから災害に巻き込まれる等身大のヒーローだという特徴があるにせよ、全体としては暴力シーン満載の単純なハリウッド映画だ。しかしそこに、いくつかの和解のモチーフが含まれていることに気づいた。

1つは、別居中の妻との和解だ。追いつめられた主人公のジョンは、唯一の理解者であるアルに、妻に対する遺言じみた言葉を託す。「腐るほど『愛してる』とは言ってきたが、『すまん』と言ったことはなかった。」自分の不明に対する赦しを請う言葉だ。

日本人は時に「すみません」を連発するが、80年代のマッチョな刑事は、死ぬかも知れないときに、振り返っても思い出せないほど、妻に「I’m sorry.」とは言わなかったらしい。プライドは関係を引き裂いてしまう。

一方妻のホリーは、別居後、夫に相談せずに旧姓を名乗っていた。ところが、夫の命がけの救出劇の後に、ジョンがアルに、「ホリー・ジェネロだ」と旧姓で紹介したときのこと。ホリーは言葉を遮って、「ホリー・マクレーンです」と夫の姓を告げた。

結局、夫を1人ニューヨークに置いてきぼりにしたキャリアウーマンが、人付き合いの苦手なカウボーイに惚れ直すという、目出度し目出度しの幕切れとなっている。「不器用ですから」とつぶやく高倉健型価値観の勝利だ。

しかし見方を変えれば、ジョンの妻に対する悔い改めがあったからこそ、ハッピーエンドを迎えることができた、とも解釈できる。映画では、やり直しがきいたが、現実には手遅れになることもある。今日という日に「ごめんね」と言っちゃいましょう。

 

エペソ5章25節
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。