■泣かなくてもよい

 

落語には、「落ち」と呼ばれる物語の結末がある。落ちを聞いた後、落語の世界に浸っていた自分が、唐突に現実世界に引き戻される。しばしば、噺は突然落ちる。「こんなに良い語りを、その駄洒落で落としていいの」と思ったことは1度や2度ではない。

けれども、客にしても、ずっと寄席にいることはできない。だから、いつかは話が締めくくられなければならない。現実の生活に戻って、生身の人間と向き合い、自分に与えられた役割を果たさなければならないからである。

噺、つまり「架空の物語」が終わるのを惜しむ思いがあっても、終わらないと「実際の物語」、つまり自分が主人公である現実生活が始まらない。落ちに伴う違和感や困惑は、しばし想像の世界を散歩していた自分が、覚醒するための代償とも言えよう。

落ちは、葬儀のときに僧侶が行なう「引導」を想起させる。引導は本来、衆生を仏道に引き導くことを意味するが、社会学的には、喪失感、悲しみ、恐れ、孤独、後悔に苦しむ遺族が、死者をあきらめ、直面すべき現実生活に復帰するための儀礼である。

しかし、実際には、引導を渡された死者が解脱の境に入ることはないし、遺族が直ちに死者への拘泥から解放されるわけでもない。その証拠に、繰り返し経が唱えられ、その後に一連の仏事が続く。遺族は長らく困惑しながら生きるのである。

それでは、キリスト教では、死者を弔う人たちをどう扱っているだろうか。2つの態度があると思われる。1つは、悲しむ人々に対するあわれみと共感である。英語の聖書で1番短い節は、”Jesus wept.” の2語で成る節だ。ヨハネ11章35節にある。

友人の亡骸の前で、イエス様は涙を流された。イエス様は、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となってい」(ヘブル2章15節)る人間をかわいそうに思われた(詩篇103篇14節参照)。私たちの神は、私たちの悲痛に共感し、涙を流される神なのである。

一方、もう一つの態度がある。イエス様は、ひとり息子を亡くした未亡人に、「泣かなくてもよい」(ルカ7章13節)と言われた。そして、その死んだ青年を生き返らせた。「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」という命令には、実際の奇跡が伴った。

確かに、地上の別れはつらく、信仰のゆえに、苦しみをなかったかのように扱うことはできない。イエス様も涙を流された。だから、私たちも泣いていいのである。しばらく主とともに泣くことが、感情の整理のために必要なプロセスだと思われる。

しかし、その同じ主が「泣かなくてもよい」と言われる。神は人を「死の苦しみから解き放って、よみがえらせ」(使徒2章24節)るからだ。「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現する時が、やがて来る(第1コリント15章54節)。

イエス様の権威ある御言葉は、悲嘆のプロセスを終わらせ、再び私たちを現実の戦いに向かわせる。見事な「落ち」だ。これが、真の「引導」だ。イエス様は、涙を流された後、「ラザロよ。出てきなさい。」(ヨハネ11章43節)と大声で叫ばれた。

その声を聞いて墓から出てきたのは、もちろん死んだラザロ本人だったが、象徴的には、悲嘆に暮れていたマリアやマルタでもあった。そして、御言葉を聞いた人たちは、故人を悼む物語から、復活の主を証しする物語へと移ることができたのである。