■儀礼の意味

 

私たちが、「良い試合だ」と評価するのは、最後までどちらが勝つかわからないようなシーソーゲームだ。いくらひいきのチームが優勢でも、極端なワンサイドゲームなら興味も半減する。私たちの脳は時に、「はらはらどきどき」を快感と感じるからだ。

正義の味方と悪者が戦うドラマの、よくある結末は次のようなものだ。すったもんだの末、正義の味方が優勢となり、悪者は絶体絶命の状況に追い込まれる。人格者である正義の味方は、仲間の仇を討たないで、命乞いをする悪者を赦して命を奪わない。

ところが、正義の味方がその場を立ち去ろうとして後を向いたときに、悪者は卑怯にも隠し持っていた武器で、正義の味方を、背後から反撃しようとする。正義の味方はそれに気づき、危機一髪のところで悪者を撃ち殺す。これが娯楽のパターンである。

2つの勢力が相拮抗するという非聖書的な仮定を、霊的な戦いに当てはめて、自分が信じているシナリオ通りに感じたり行動したりする場合がある。たとえば、読経が響くお堂に行けば、「霊的な」圧迫を感じるという場合などがそれだ。

パウロは、2時間もの間「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と群衆が叫ぶ集会に出て落ち込んだだろうか。エリヤは、国を代表する450人の異教の預言者たちが、供え物の上に火を下そうと、朝から真昼までバアルの名を呼んでいたときに言った。

「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」(第1列王記18章27節)彼がこのように言ったのは、創造主が、彼らの信じている神のようではない、という確信を持っていたからだ。

パウロもエリヤも、創造主と悪霊は「いい勝負をする」という仮定には無縁だった。彼らは、すべての苦難の中で、自分たちが神によって「圧倒的な勝利者」(ローマ8章37節)とされていることを自覚していた。だから、霊的な圧迫は錯覚なのである。

それでは、お題目の合唱の中で気持ち悪くなった人に対してはどうすればいいだろう。彼らが「霊的なアタック」と呼ぶものは、クリスチャンになる前に身につけた非聖書的な仮定に由来する錯覚で実質が伴わない。つまり、思い込みのなせるわざだ。

赤い色が認識されるはずのない深度の海に沈むコーラの缶を見たダイバーが、缶は赤かったと証言するようなものだ。私たちの認識は、いつも事実を映し出すわけではない。見たり感じたりする前に持っている前提に、人間の感覚は容易に左右される。

このような錯覚が少ないほど、的確に戦える。しかし、一方、もし宗教儀礼に出て気持ち悪くなった人のために祈り、祈ってもらった人が、すでに「圧倒的な勝利者」にされているという事実を確信するのなら、祈るという儀礼には、積極的な意味がある。

パウロも、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(第1コリント8章1節)と言っている。知識を誇って人を見下げるのと、隣人に寄り添い、彼らが正しい確信を持つために助けるのと、どちらが兄弟を愛する行為と言えるだろうか。

何らかの宣言をしたり祈ったりすることを、真の敵と自分の立場と神の勝利を確信するための儀礼だと考えるなら、私もそのプロセスを通っている人を、愛をもって助けるべきではないか、と考えるようになった。

 

ピリピ人への手紙3章16節
私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。