■教理の純粋性
先週まで、国際会議に参加していた。60数名がアジア各地から集まった。ところが、セッションや食事に遅れずに集まったのは日本からの参加者だけだった。ある時は、時間になっても、会場がまだ解錠されていないことさえあった。日本人はやはり真面目で几帳面だなと思った。
この真面目で几帳面という日本人の特質こそが、世界中で日本製品が選ばれ、日本が有数の工業国となった主因である。ところが、細かいところにまでこだわる完璧主義が、不必要な対立の原因となり、しばしば仲間同士の一致の障害となることもあるようだ。
1989年にマニラで開かれた第2回ローザンヌ世界伝道会議には、170カ国から3000名の代表者が集まった。会議中に開かれたある集会で採用された、いわゆるペンテコステ派の礼拝形式に対して、抗議したのは、当時の西ドイツと日本の2つの代表団だけだった。
もちろん、この件は、単に国民性の問題として片づけられるほど単純ではない。しかし、私はこの種の対立を日本国内で多数目撃してきた。さらに残念なことに、教理の純粋性の議論が高じて、宣教協力の足かせになってきたという事例もかなりある。
そもそも、完全な教理を持っているグループは一つもない。この事実は、自分の成長のプロセスを考えると理解しやすいだろう。5年前に「これだ」と思っていたことが、今になって振り返ってみると物事の一面に過ぎなかったと思うことはないだろうか。すぐれた神学者でも初期と後期の主張が完全に一致することはない。
教会が完全な教理を持つことができる日が来る。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(第1コリント13章12節)
その日までは、互いに謙遜に学びあうために、議論が必要なときがあるだろう。しかし、意見が一致しないからといって、共に手を携えて戦うことができない、という場合はそれほど多くはない。教会が内部分裂することで、共通の敵にアドバンテージを与えてはならない。パウロが言うように、「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。」(第1コリント6章7節)
真面目で几帳面という特質は、神が日本人に与えてくださった賜物の一つだと思う。しかし、枝葉末節にとらわれないことで、本質部分で一致できることもある。パウロがコリントの諸教会に対して宣言した決意表明は参考になる。
第1コリント2章2節
わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。