■スプランクニゾマイ
ある人が密室で、神とふたりだけの時間を過ごしたのだそうだ。およそ3時間祈った後、神が重い口を開き、「久しぶりに私の前に出たな」とおっしゃったとのこと。暗い顔で話されたので、聞いていてぞっとした。
この話の神と、「放蕩息子のたとえ」に描かれた父親とは、印象が相当違う。財産を息子に生前贈与したときも、父はしかりつけることはなかった。息子が馬鹿騒ぎをしていたときも、ひもじい思いをしていたときも、父の息子への思いは変わらなかった。
この父親の財力や情熱から考えて、その気になれば、自分から息子を探しに行き、無理やり連れ戻すこともできただろう。けれども、息子が自分で気づき、自分の意志で父の許に戻るのを待っていた。父は息子の帰りを、一日千秋の思いで待っていた。
だから、息子の姿を見つけたとき、彼は我を忘れて駆け出した。そして、財産を浪費した息子を、宝物のように抱きしめた。「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(ルカ15章20節)
父は息子をかわいそうに思った。「かわいそうに思う」は「スプランクニゾマイ」という言葉で、深い感情を表わす。直訳すると、「内蔵が震えるほどあわれんだ(歓喜した)」と訳すことができる。新約聖書では、イエス様に対してだけ用いられた用語だ。
強盗に襲われた人を助けたサマリヤ人の気持ち(ルカ10章33節)、多額の借金を棒引きした王の気持ち(マタイ18章27節)、弱り果てた群衆(マタイ9章36節)や病人(マタイ14章14節)をあわれむイエス様の思いも、同じ言葉で表現されている。
私たちは救われた後も、弟息子のように、自分勝手に判断したり、神との親しい交わりを軽んじたりすることがある。しかし、父の愛は、変化する私たちの思いに連動しない。雲の上が常に快晴であるように、父は無条件で変わらぬ愛を示してくださる。
もし、父が心変わりしたように感じるなら、それは私の心に雲がかかっているからだ。弟息子が、父のところに帰ろうと思ったように、自分で罪を認めて告白するなら、すぐに父は「かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけ」してくださる。
恐ろしい声で、「久しぶりに私の前に出たな」などとは言われないのである。
ヨハネの黙示録3章20節
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。