■もし、遠くまで行きたいのなら…
新約聖書で、「平和」とか、「平安」と訳されている言葉は、ギリシャ語の「エイレーネー」だ。信者が「今すでに」経験しており、「やがて終末に」完成する「満ちあふれる祝福」、神と人との和解によってもたらされた「完全な救い」を意味している。
コロサイ人への手紙3章15節の「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。」に出てくる「平和」も、単なる心の安定ではなく、完全な救いを意味している。
「召されて一体となった」ということは、信徒の群れである教会に加えらたということだ。パウロは、「キリストの平和」つまり「完全な救い」を経験するために、あなたは教会に加えられたのだ、と説く。
救いを個人主義的に考えてきた私は、ここで違和感を感じる。「主の名を呼び求める者はみな救われる」というとき、キリストとの一対一の個別の呼応が前提とされているはずだ。人はおのおの自分の行ないによって裁かれる(黙示録20章13節参照)。
まず、個人があり、それが集まって集団となるという順番である。つまり、個別に救われた私が周囲を見渡すと、同じように個別に救い出された人たちがいて、その人たちと組み合わされた、という順番で、教会の交わりをとらえていた。
ところが、教会が「キリストのからだ」で、私がその一部だとすると、そこに解決できない問題が出てくる。部分なしには全体はなく、全体なしに部分はない。そうであるなら、どちらが先に、と考えることに意味があるのだろうか。
時系列的に考えても、個人が救われるために、教会が用いられたのであるなら、個人が先だとはいえなくなる。エペソ人への手紙5章でも、キリストと教会が、花婿と花嫁にたとえられていて、教会がひとりの人のように扱われている。
「個人教」信者の私は、兄弟姉妹と結ばれ、一体とされて、キリストの平和が心を支配する経験をした方がよい。アフリカの諺を思い出した。if you want to go quickly, go alone, if you want to go far, go together. 神の家族と一緒に進む恵みがある。
伝道者の書4章9、10節
ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。