■喜びの会食

 

エマオの途上で、弟子たちが、自分と話している人物がイエス様だということを気づいたのは、パンを割く仕草が特徴的だったからのようだ。弟子たちにとって、イエス様と一緒に食事をすることが、生活の一コマだったということが伺い知れる。

コリントの諸教会の人たちも、日常的に「食事のために集ま」(第1コリント11章33節)った。初代教会の時代も、会食が交わりの中心だったのである。もともと、聖餐式は独立した儀式としてではなく、普通の食事の一部として行なわれていた。

会食は主の苦難の記念であるとともに、慈善の意味もあった。教会には、社会階層の異なる人たちが混在していた。貧しい人たちは、「持ちよりパーティー」に参加することで一食助かった。だから、この会食は、「agape(愛餐)」と呼ばれた。

パウロの「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」(第1コリント11章27節)という警告は、貧しい人たちを待たずに食事を済ませてしまうという具体的状況を指していた。

夜遅くまで労働せざるを得ない貧しい人たちは、お腹を空かせて遅れて集会に集った。しかし、かけつけてみると、食べ物が残っていない。先に到着した富んだ人たちが、平らげてしまったからだ。すでに酔っている者までいるという始末だった。

主が十字架で血を流し、肉を割かれたのは、社会階層、民族、性、考え方を超えて、人々が、1人の主に結びつけられた「1つのからだ」であることを味わうためだった。それなのに、コリントの諸教会では、会食が対立を象徴するものとなっていた。

「みからだをわきまえないで、飲み食いする」(11章29節)の「みからだ」は、食事にありつけなくて痛んでいる「弱い立場の兄弟姉妹」のことである。彼らを辱めることは、自分自身を辱めることであり。病気や死に至る裁きを招くことである。

もし、愛餐のときに、ともに食事に与る兄弟姉妹に対して、悪意や分裂の思いを持っていることに気づいたなら、悔い改める必要がある。しかし、そういう具体的な思いがないなら、深刻な顔をしてうな垂れることはない。むしろ、喜ぶべきだ。

会食は、仲間とともにイエス様の救いを祝う宴会だ。ザアカイは、食事の席で言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19章8節)

イエス様を自宅にお迎えし、一緒に食事をすることが許されたザアカイが、「貧しい人たちを顧みる」という新しいライフスタイルを大喜びで表明した様子が、鮮やかに描かれている。主の晩餐は、もともとそういう分かちあいの場だったのである。

 

ヨハネの黙示録3章20節
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。