■変わったほめ言葉

 

何気なく言ったことが、相手の心を傷つけてしまうことがある。後で説明をして心がすぐに通じ合うこともあるが、「そういう風に私のことを思っていたんだ」とか言われて、痛くない腹を探られるようになると、正直、面倒くさくなってくる。

もちろん、自分の未熟さや伝達能力の低さを棚に上げるつもりはない。しかし、誤解を伴わない人間関係があるのだろうか。むしろ他者は、自分とは違う仮定や視点や価値観を持っているという前提を持って、相互理解を深める努力をした方がよい。

扱われるべき問題は、「それは違うでしょ」と思ったときに、どれだけ相手を信頼できるかという点だ。ここで、積み上げてきた信頼「貯金」が物を言う。だから、面倒くさいとか言っている場合ではない。良いコミュニケーションには血と汗が伴う。

一方、誤解を恐れず、相手のために発言するという場合もあるだろう。箴言27章5節には、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。」とある。誤解されたり攻撃されたりすることが予想されても、「友達だからこそ」話すときがある。

イエス様も、ペテロに、「下がれ。サタン。」(マタイ16章23節)と叱責された。もし、信頼関係がなければ、「それを言っちゃあおしめえよ」という場面だ。それを言っても壊れない関係が築かれていたからこそ、主はペテロに厳しく向き合われた。

先日、変わった褒められ方をした。「君は、私が自由に反対意見を言うことができる数少ない友人だ。何を言っても信頼関係が揺るがない、と分かっているので、馬鹿げていると思えるようなアイデアでも、正反対の考えでも、正直に分かちあえる。」

私もこういう風に思ってくれる友達がいて、幸せだなあと思う。人は1人では生きていけない。だから、友達を作ろうとする。それなのに、多くの人たちが、人間関係で悩んでいる。人は身近な人との関係が良好なら、だいたい幸せなのだと思う。

 

ヨハネの福音書15章13節
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。