■異言の宣教学的意義

 

エルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が下った。「突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。」(使徒の働き2章2-3節)

「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(4節)描写されている出来事は、みな驚くべき現象だった。だが、物音を聞いて集まった人たちがもっとも驚いたのは、「語られた言葉が理解できた」という点だった。

聖書には次のように記されている。「彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。」(6節)このとき、あっけに取られた人たちは、主に、世界中からエルサレムに移住してきた敬虔なユダヤ人たちだった。

「私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」(9-11節)

彼らは元々、当時の地中海世界の各地で育ったが、ユダヤ人としてのアイデンティティのゆえに、故郷を捨ててエルサレムに移住した「宗教心の篤い人たち」だった。彼らの多くは、日に三度、エルサレム神殿で、朝の祈り、正午の祈り、夕の祈りをささげていた。

彼らの行動の前提を文章化すると、「ユダヤ人が住むのはエルサレムであるべきだし、賛美はヘブライ語でするべきだ」となる。その彼らが、自分たちの生まれ故郷の言葉で神を賛美しているのを聞いたのである。しかも、賛美していた人たちは、ガリラヤ訛りのある田舎者の集団だった。

多大な犠牲を払って故郷を離れ、慣れないヘブライ語で賛美を捧げることに人生をかけた人が、「母国語の賛美」を聞いた。彼らは、「驚き惑って、互いに『いったいこれはどうしたことか。』と言った。」(12節)思いがけない「Aha! 体験」だった。

神の意志は、彼らが故郷に帰り、自分たちの言葉で、自分たちの文化の中で、神を賛美し、福音を伝えることだった。散らされていったエルサレムのユダヤ人が、異邦人伝道に献身していった経緯が、「使徒の働き」の7章以降に記されている。

「聖なる言葉」で神を賛美するために、「聖なる場所」に集まるのではなく、「聖なる御霊」を受けた「普通の人たち」が、「自分の国の言葉」で、「遣わされた場所」で賛美することが、神の御心なのである。

神は自民族中心的傾向のあったペテロを、忍耐強く導かれた。彼は幻を見て、百人隊長のコルネリオを訪問した。そこで彼は、あの五旬節の日のように、聖霊の賜物が異邦人に注がれ、「異言を話し、神を賛美するのを聞いた。」(10章46節)

それが何語であったのかは確認できないが、その経験が、ペテロをして、思い切った告白に導きしめた。「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(10章35節)

異邦人は、ユダヤ人のようにならなくても、異邦人のままで、神を賛美することができる。パウロはそれを、世々隠されていた奥義だと言う。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(エペソ3章6節)

やがて、ペテロやバルナバがこの真理から離れていったとき、パウロは激しく対決した。「彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。『あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。』」(ガラテヤ2章14節)

「誰かのようにならなければ、神に近づくことができない」と思うとき、御霊の思いを探りなさい。あなたのいる場所で、あなたの言葉で捧げられる賛美を、神は聞きたいと思っておられる。「岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。」(雅歌2章14節)歴史を導かれる神のビジョンには、様々な特徴を持った諸国の民の賛美が含まれている(黙示録22章2節参照)。

あなたの心には、何語の賛美が聞こえているだろうか。大阪弁、アキバ語、ウチナーグチ(沖縄方言)のような「馴染んだ言葉」か。それとも、スペイン語、タガログ語、アラビア語などの「異言」か。そういう異言は、「派遣の烽火」である。

「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」(イザヤ書6章8節)と語られる御霊の促しを、私は聞いて応答しているだろうか。自国語で賛美するあらゆる国の人々を見るという「神の夢」が、本当に「私の夢」となっているだろうか。

 

使徒の働き1章8節
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。