■あざける者を責めるな

 

まっすぐに生きているつもりでも、「あざける者」に会うことがある。彼らがあなたを責めても、そのことで心を悩ませる必要はない。ただし、神が正そうとしておられることがあるなら、そのことについては神に告白し、罪の赦しを受け取ればよい。

ほとんどの問題は責めている者の側にある。相手の問題を引き受けてはならない。だが、理不尽に責められてばかりいては、「男(or女)がすたる」か? 挑発するような相手だと、言い負かしたくなるのが人情だ。しかし聖書は、あざける者を諭したり叱ったりするべきではない、と教えている。

説得の可能性がほとんどないと思っても、「相手のためを思って指摘しよう」と考えて、シミュレーションを繰り返すことがある。そういうときは、たいてい練習しているうちに疲れ果ててしまう。相手の悪を繰り返し思い起こすことになるからだ。

思い切って立ち向かうと、多くの場合、問題はさらに複雑になっていく。「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26章52節)「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。」(ローマ12章18節)

十字架の主に倣い、ただ善を計る。公平で正しい裁判官が、知恵に満ちた裁きをされる。「彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」(マタイ10章26節)

自ら裁判席についてはならない。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(ローマ14章4節)

相手だけでなく、「私をさばく方」(第1コリント4章4節)も主なので、自分の正しさを証明する必要がない。「主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。」(詩篇37篇6節)それが、キリスト者ゆえの侮辱なら、なおさら恥じることはない。

あざけりを受けるときは喜びなさい。そのとき、神の栄光の霊が留まるからである。「キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」(第1ペテロ4章13節)

 

箴言9章7-10節
あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。