■神の作品
親子ほど年の離れた職人がいた。親方に、「いろんな客がいるので、苦労が多いでしょう。」と聞いてみた。すると親方は、「いやあ、苦労したのは、むしろ職人との関係の方です。事あるごとにへそを曲げる職人もいたし、すぐ辞める子もいました。」
「でも、この子は、一生懸命仕事をするから、教え甲斐がある。」二十代半ばの青年は、傍らで嬉しそうに聞いていた。そういう風に自分の頑張りを認めてくれる親方に出会えた弟子は幸せだと思った。そういう弟子に出会えた親方も幸せだと思った。
赤塚不二夫氏の告別式でのタモリの弔辞が話題になった。自分がお世話した人から、肉親以上の存在だったと言われて惜しまれ、「私もあなたの数多くの作品の一つです」と感謝されて見送られた赤塚氏も、また、幸いな「親方」だったのだと思う。
この話は、映画「陽の当たる教室」を彷彿とさせる。大作曲家になる夢を持っていた高校の音楽教師が、有名にも金持ちにもならずに、教師として30年間を過ごし、引退の時を迎えた。学校を去る日、サプライズ謝恩送別会で、知事がスピーチした。
「見てください。あなたは、ここにいる全員の人生に触れ、一人ひとりをよりよい人間に育てて下さいました。私たちがあなたのシンフォニーです。私たちはあなたの作品のメロディーであり、あなたの人生の音楽なのです。」
英語名は、「Mr. Holland’s Opus」。直訳すると、「ホランド先生の作品」となる。ホランド先生は、売れるシンフォニーは書けなかったが、自分でも知らないうちに、知事を含む多くの生徒の人生という「かけがえのない作品」を世に送り出していた。
育っていく子どもや弟子たちを見ることが、育成者の報いである。「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。」(詩篇127篇3-5節)
しかし実際は、どんな育成者も、相手の人生の、ある限られた季節に、神が許される分だけ影響を与えているに過ぎない。人の人生は、生命を与えられた「神の作品」である。まだ描きかけのデッサンかも知れないが、私の人生は巨匠の作品なのだ。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2章10節)人生が神の作品だと自覚する人は、他の作品の完成のために犠牲を払う。作者である神の作風を、反映するようになるからである。
コリント人への第1の手紙3章5-6節
アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。