■あなたはどこにいるのか
罪を犯した人間は、主なる神が園の中を歩く音を聞いて身を隠した。すると神の方から、「あなたはどこにいるのか」(創世記3章9節)と呼びかけられた。人が壊してしまった関係を、回復しようとしてアクションを起こされたのは、神の方だった。
神は、アダムがどこにいるのかご存知なかったわけではない。自ら罪を自覚して、悔い改めるようにと、機会を与えられたのだ。ところが、アダムは神に信頼しつつ御心を実行するという服従の道を捨てて、あくまで思いのままに生きる道を選んだ。
アダムの答えは的外れだった。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」(10節)裸であることは、恐れたり隠れたりする理由にはならない。問題は神の前に秘密を持ち、それを隠しおおせると踏んだことだ。
神は言われた。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」神は人間の悪巧みを退け、今度は「開いた質問」だけではなく、「閉じた質問」もして、問題の核心に迫られた。
裸かどうかが問題ではなく、「誰に聞いたのか」という点が重要だ。「神のかたち」に創造された人間には、イエス様が模範を示されたように、「その方<父>から聞いたことをそのまま世に告げる」(ヨハネ8章26節)という使命が与えられていた。
しかしアダムは、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3章5節)という蛇の言葉に耳を傾けた。
「神のようになり、善悪を知るようになる」必要はなかった。なぜなら、アダムはすでに神のようであり、他の被造物に適切に命名することができたからだ。蛇は、「知識を独占する神」という誤った神認識を植え付け、人が分を超えるように唆した。
「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8章44節)
「あなたはどこにいるのか」という問いの内容は、「だれがあなたに教えたのか」という問いによって説明されている。真理の父に聞く用意ができているか、偽りの父の教えを受けるか、という二方向の、どちらを選択するかで、人の行き先が決まる。
神は人類の歴史の中で、罪を犯す人間に、「あなたはどこにいるのか」と、問い続けてこられた。そして今や、「キリストの使節」とされたキリスト者たちを通して、「神の和解を受け入れなさい。」(第2コリント5章20節)と呼びかけておられる。
主が呼びかけられたときに、「お話しください。しもべは聞いております。」(第1サムエル3章10節)と答えることができる者は幸いだ。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6章8節)と言えたなら、神と歩むことができる。
詩篇95篇7-8節
主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。