■知られない食物

 

空腹であられたはずのイエス様が、食事を取られなかった。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4章32節)「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(4章34節)

みこころについては、ヨハネの福音書の少し後で解説されている。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」(6章39節)

その直後、魂の大収穫について語られる。しかし、ここでの強調点は収穫の多さではなく、「ひとりも失わないこと」であり、「ひとりひとりをよみがえらせる」ことだった。「収穫が多ければ行くが、そうでなければ行かない」という論理とは違う。

イエス様にとって、今後救われてくる人たちは、天の父から与えられた掛け替えのない家族だ。だから、良い羊飼いは1匹の羊のために生命を捨てる。「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こる」(ルカ15章10節)のだ。

孤独な人たちが神のやさしさに満たされ、生きる意味を見失った人たちが神の情熱を知り、自己受容できない人たちが神の誠実に触れる。そういう場にいることが、魂にとって飛び切りのご馳走なのだ。たとえ、何がなくても、どんな状況でも…。

自分の満足を求めることに汲々としていると、この食物は味わえない。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」(ピリピ2章21節)遣わした方の満足を求めるところに、人生の真の充実がある。

 

コリント人への第2の手紙4章18節
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。