■ライフスタイルが変わるために…
「世界に一つだけの花」と歌ううちに、自分探しの旅に出たくなり、放浪したあげくに、「何にもまともに取り組みたくない私」を見つけるなら、ますます虚脱状態に陥いるだろう。「あなたは尊い」式のアプローチには、渇きと忠実さの確認が必要だ。
また、「目の前ににんじんをぶらさげる」式のアプローチは、短期決戦には効果がある場合もあるが、継続的にライフスタイルを変えるためには、ほとんど無力だ。生活に密着した新しい習慣を身につける前に、「飴と鞭」だけでは息切れしてしまう。
ましてや、教室での「詰め込み」式は論外だ。たとえ、何が正しいかを判断できても、それを実践する人はほとんどいない。教える側の自己満足に、学ぶ側がつきあわされる構造の中では、耳が肥えた批評家は育っても、真理に生きる人は育たない。
You can take a horse to water but you can’t make him drink. いくら外側から巧みに働きかけても、本人が飲みたいと思わなければ、水を飲ませることはできない。一時的に飲んだとしても、長続きはしない。「やらされている」感じも残るだろう。
自分の意志で、何かにコミットする人たちが育てられるためには、まず第1に、実際にそのように生きている「手本」となる人が身近にいて、「あのようになりたい」という願いが、被育成者の内側に育ち、常に夢の実現を思うようになる必要がある。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2章13節)
「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3章17節)
洗練されたトレーニングシステムがあっても、「実行したら、このように生き方が変わりました」という生き生きとした証がなければ、学んだ人が実践する可能性は低い。逆に証があれば、たとえ教える手際が悪くても、大切なことは伝わるものだ。
第2に、日常生活の中で、目的に注意を向ける仕組みが必要だ。感動は冷めるもの、教えは忘れるもの。だから、「あんなに燃えたこともあった」と振り返るようになる前に、「それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。」(箴言7章3節)
「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」(申命記6章7-9節)
第3に、同じ夢の実現を目指して、励ましたり叱ったりしてくれる友人に支えられる関係が必要だ。「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。」(箴言27章17節)相手の成長を本心から願う友人関係を持つことができた人は幸いだ。
友のためなら、首を差し出すこともある(ローマ16章4節参照)。友だからこそ、耳の痛いことも言うこともある(箴言27章5節参照)。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)
ガラテヤ人への手紙5章6節
キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。