■鍵と西遊記
先日、何気なくテレビを見ていると、「星新一、ショートショート」が放映されていた。十代の頃、星氏の短編小説を愛読していたので、なつかしかった。タイトルは『鍵』。道端で鍵を拾った男が、その鍵に惹かれ、鍵に合う錠前を探しはじめる。
手当たり次第探しまわるが、見つからない。歳を取り、疲れ、何の鍵かわからないまま死ぬことを恐れた男は、その鍵に合う錠前を作らせて、自分の部屋のドアに取り付ける。その夜、ドアから幸福の女神が現われ、何でも望みをかなえると告げる。
男は少し考え、「何もいらない。今の私に必要なのは思い出だけだ。それは持っている。」と答える。何かを成し遂げることに価値を見いだす傾向のある私の心に、真っ先に浮かんだ感想は、「思い出作りのための人生に何の意味があるのか」だった。
しばらくして、もう一つの思いが過った。「目的達成に固執すると、プロセスの面白みを見過ごしてしまうかもな。」西遊記にしたって、三蔵法師や孫悟空が最後に手にしたはずのお経についての話は何も出てこない。それはある意味どうでもいいのだ。
妖怪を退治しながら旅を続ける、そのこと自体が面白い。なぜそれが面白いのかという理由の一つは、たとえハラハラドキドキしても、終にはハッピーエンドになることを読者が知っているからだ。「一件落着」の宣言が、冒険話の前提なのだ。
人生は遠近両用メガネで見た方が楽しい。私は神が許される日まで生きるだろう。そして、天で、やさしく、賢く、美しい方に見える。その結末が確実だからこそ、今日の出来事を余裕をもって見ることができる。さて、今日は何が起こるだろう。
ローマ人への手紙16章20節
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。