■標識無視

 

「すみません」を連発する人がいる。謝罪の場で使う「すみません」は、元来、心を入れ替えて善処するという意味ではない。自分の心が「澄んでいない」という心象風景を描写しているだけだ。実際、この語を連発する人が行動を変える確率は低い。

不祥事が起こる度に、責任者が頭を下げるシーンが報道される。その行為の意味もまた、たいてい謝罪ではない。世間の人々の気分を害したので、取りあえず、当面は恭順の態度を取っておき、批判を躱そうという思惑を秘めた責任逃れの儀式だ。

潔く自分の非を認め、生き方を変えるほどまでに、深く悔い改める人に会うことはめったにない。聖書で「悔い改め」と訳されている言葉の原意は、方向転換だ。神を無視して自分勝手に生きてきた人が、回れ右をして神に聞き従う道を歩み始める。

先日、友人から悔い改めの告白を聞く機会があった。感動的だった。数年前、その人は岐路に立っていた。私は言った。「神に聞きなさい。神は必ず答えてくださる。神は君にとっての最善の道、将来と希望を与える道に歩むように導いてくださる。」

ところが友人は、神に聞かなかった。恐かったのだ。神に聞いた結果、大切なものを手放せ、と言われるかもしれなかった。神は、しつけられていない犬のひもを無理やり引くように、人を扱われない。その人は、神に聞かないで自分の道を進んだ。

「行き止まり」と記された標識を、わざと見ないで進むとどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。標識の所まで戻って、仕切り直す他ない。その人は言った。「もう遠回りはできない。何よりも大切なのは神に従うこと。今度はしっかり聞きます。」

「すみません」の言葉も、頭を下げるパーフォーマンスもなかったが、友人が神の前に遜っていることがわかった。罪を認めて、改めて道を尋ねるご自身の子どもを、父は正しく導かれないだろうか。父は子どもたちに祝福を与えたくて仕方ないのだ。

 

箴言16章19節
へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。