■王と女王よ、立ちなさい
映画「ナルニア国物語第2章」の後半のハイライトを見て考えた。王の王であるアスランが、「王と女王よ、立ちなさい」と言ったとき、ペベンシー兄弟はためらず立ち上がった。しかし、カスピアン王子は躊躇した。資格がないと思ったからだ。
アスランは、カスピアン王子にやさしく語りかけ、権威ある態度で、彼を王に任命する。そのシーンも訓示的だが、より感動的だったのは、ペベンシー家の4人の子どもたちが、すでに王とされたという自覚を持ち、アスランに即座に従ったことだ。
別の場面では、何やら真剣な話をしながら、アスランと城内を寄り添って歩くピーターとスーザンの姿が描写されていた。話の中身は不明だが、彼らは王として、王国と領地をどう治めればよいか、敵にどう対抗するかを話しあっていたのだろう。
この王としての話しあいが、教会の交わりの本質である。イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、山に登られた。祈っておられると、イエス様の御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。そこにモーセとエリヤが現われた。
「栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」(ルカ9章31節)イエス様がどうしてこの会議を、3人の弟子たちに見せられたのかは、聖書の中でははっきり語られていない。
しかし、ペテロが後日、自分を「キリストの威光の目撃者」(第2ペテロ1章6節)と紹介したことから、この経験が彼のアイデンティティーを構成したことが伺える。山で幕屋の原型を見たモーセのように、ペテロは教会の原型を伝える者とされた。
一緒に目撃したヨハネが証しするように、教会は、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」(第1ヨハネ1章3節)だ。それは、家族の交わりであると同時に、神に似せられた人間だけが担うことができるミッションに関わる話し合いである。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章28節)神の国、つまり神の支配が全被造物に及ぶという目的のために、神は人を創造し、祝福し、神と共に働くものとして任命された。
新約聖書の原語であるギリシャ語で、教会はEkklesiaと表現された。直訳すると、呼び出された者たちである。敵の王国である世から、いわば神の帝国の諸王の1人として招聘された。ちょうど、オバマ次期大統領が閣僚を任命するようなものだ。
もし、農水大臣が、他の閣僚と仲が良く、閣議で総理大臣や官房長官に会うことを楽しみにしているとするなら、それは良いことだ。だが、任ねられた権威と任務を軽んじ、農水行政をほったらかしているなら、国の指導者として適任だろうか。
あなたは、ナルニア国の王のように王である。自分が誰かを知って、割り当てられた領地に神の国(支配)をもたらしなさい。「わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならない。」(ヨシュア1章6節)
立て、神の国の王よ!
エペソ人への手紙2章1-6節
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、—あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。—キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。