■立場の自覚と法的正当性

 

水戸黄門漫遊記は、権威について考えるための格好の材料だ。登場人物全員が将軍家の権威を認めている。黄門が権威を行使すると、お決まりの大逆転が起こり、権力を濫用していた人が罰せられる。それを見て視聴者が溜飲を下げるという構造だ。

イエス様の権威は、徳川幕府を凌ぐ神の国の力である。人間を除く被造世界は、その権威を知っている。悪霊たちでさえ信じておののいている。イエス様は弟子たちにその権威を委ねられたのだから、日本でも弟子漫遊記が展開されてもよいはずだ。

「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。」(ヨハネ14章12節)イエス様と同様の権威を行使するためには、二つの条件を満たす必要がある。それらは、立場の自覚と法的な正当性である。

「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(第1ペテロ2章9節)イエス様を信じる者は、恵みにより、すでに「王である祭司」とされた。だから、立場を自覚することが、権威行使の最初のステップだ。

権威を行使するのは、やみの中に生きる人々が、驚くべき光の中に招かれるためだ。黄門を含む登場人物全員が徳川の力を認めていたように、悪霊たちはイエス様が誰かを知っている。悪霊たちは弟子たちの無自覚によって、息をついているのである。

権威行使の第2ステップは、法に従うことだ。イエス様は、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15章14節)と言われた。イエス様の友とされる条件は、命令に服従することである。

友への祝福は、働きの結実と祈りの答えだ。「あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15章16節)

御名によって求めるというのは、祈りの最後に付け加える効果絶大のおまじないではない。それは御心を知って、いわば代理人として願うことだ。御名によって祈る人は、イエス様がされたように、まず父に聞いて、御心を確認している必要がある。

イエス様の代理人は、日ごろから「LMNOPの誘惑」と戦い、神と隣人を愛する。

Lは Lust=性的誘惑、
Mは Money=金銭的誘惑、
Nは Name=名声を求める誘惑、
Oは Oikos=共同体支配の誘惑、
Pは Power=権力を求める誘惑、を指している。

このように日常生活の中で、喜びつつ御言に聞き従い、失われた人々と主にある身近な家族に愛を示す人は、「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実」(ルカ16章10節)と認められ、いつまでも残る実と、すべての祈りの答えを得るようになる。

代理人としての立場を自覚し、日々神の命令に服従することで、権威は行使される。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々 に御力をあらわしてくださるのです。」(第2歴代誌16章9節)

 

使徒の働き8章4-8節
他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。