■つぶやくという罪
セミナーで、悔い改めについて教えるときには、二人組になって、実際に悔い改める練習をしてもらう。ただし、罪のリストの中からヘビーなものを選ばないで、たとえば、「つぶやいちゃった」とかいう、軽い罪を選んでくださいと言っていた。
ところが、コリント人への第一の手紙10章では、むさぼり、姦淫、主を試みることと同等の罪として、いや読み方によってはもっと重い罪として、つぶやきが挙げられている。「つぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」(10節)
「つぶやいちゃった」とか、気軽に言っている場合ではない。つぶやくことに慣れてしまった私の良心は、機能不全に陥っているのか。つぶやきが、いかに神の主権に挑戦することであり、神の心を痛めることなのかを、具体例を挙げて考えてみよう。
今日家を出てしばらくしてから、雨が降り出した。それで、あわてて傘を取りに家に引き返した。そのとき、私は心の中でつぶやいた。「なんだよ。急いでいるのに…。もっと前から降り始めていたら、傘を取りに帰らなくてもよかったのに…。」
これは、天候を司る神様に対して、「あなたは、なんてKY(空気が読めない奴)なんだ。私が天の王座に座って、あなたの仕事をやった方がずっとましだ。」と言っていることに等しい。そうだとすれば、生きておられる神をそしる私は何者なのか。
神が望んでおられることは、「いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する」(第1テサロニケ5章16-18節参照)ことだ。つぶやかないで、すべての事象を支配される神を認めるときに、純真な者と変えられ、世の光として輝くようになる。
ピリピ人への手紙2章14-15節
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。エペソ人への手紙5章18節
御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。