■荒野を通っている友へ

 

パウロの回心は、その後の人生を予兆するダイナミックなものだった。彼は当時エルサレムで最も優秀な若手指導者であり、キリスト者迫害の陣頭指揮を取るためにダマスコに派遣された。その途上で、天よりの光を受けて、目からうろこが落ちた。

彼はダマスコで、ユダヤ人たちにイエス様が救い主であることを堂々と証言し、エルサレムに行ってからも大胆に語った。ところが、彼を殺害する計画が露呈した後は、バルナバが探しにくるまでの11年間、故郷のタルソに留まることになった。

パウロは、異邦人、王たち、ユダヤ人たちにイエス様を証しする神の選びの器だと預言されていた(使徒9章15節参照)。資質や実績も申し分なかった(ピリピ3章4-6節参照)。その彼が、11年の長きにわたり、いわば雲隠れの時期を過ごした。

約束を受けた人が、神に用いられ始める前に、無為とも見える日々を過ごす例は他にもある。モーセは荒野で40年、ヤコブは東方で20年、ヨセフもエジプトで20年。約束実現の日まで、「主の仰せが彼を火で練り清め」(詩篇105篇19節)た。

聖霊に満たされたイエス様が荒野に導かれたように、神は弟子を荒野で訓練される。「だれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14章33節)神の支配と栄光だけを望む者が、それを担う者とされる。

神は試練を通して器を整えられる。自分が「用いられる」ことにではなく、神に「捕らえられている」ことに満足できるようになったときに、神が「合格印」を捺される。そして、荒野から導き出し、神の御心を地に成らせる働きに召してくださる。

 

ピリピ人への手紙3章10-14節
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。 ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。