■信じて喜ぶ

 

マタイの福音書12章に、イエス様が片手のなえた人をいやされる記事がある。彼はその人を、穴に落ちた羊にたとえ、安息日にもかかわらず直された。人の顔を恐れず父の愛を現わされた。「気は優しくて力持ち」というお姿を伝えるエピソードだ。

このとき、イエス様は、彼の手を引っ張ったのではなく、その人に「手を伸ばしなさい」と命じられた。「彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。」(13節)とある。その人は、命令に従うことに、思い切ってかけてみた。

「他ならぬイエス様がおっしゃるのだから、きっと直る。」と信じたのだろう。誰よりもいやしを願い、誰よりも失望してきた人が、常識を超えた行動に出た。イエス様の持つ雰囲気には、思わず手を出してしまうほどの迫力があったのかもしれない。

「手を伸ばしなさい」と命じられて、手を伸ばすことができた。そのこと自体が恵みだ。伸ばすことができるようにされているから伸ばせる。しかし、この圧倒的な神のわざが、いやされる側の「信仰の行為」を接触点として成立したことが重要だ。

「喜べ」という命令についても同様。「あなたが神様なら、にっちもさっちもいかない私の状態が分かるでしょ。」とイエス様に言いたくなるときでも、「喜べ」とイエス様は命じられる。喜ぶことができるようにされているから、喜ぶことができる。

脳科学の見地からも、あえて笑うことでプレッシャーを克服することができるそうだ http://www.nhk.or.jp/professional/backnumber/081021/index.html。喜ぶときに、前頭葉が適切に働き、集中できるように、神が人間をデザインされたのだ。

「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10章20節)いつも私を覚えてくださる方がおられると信じ、その方を意識して喜ぶ。それが福音だ。

 

テモテへの第2の手紙2章8節
私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

マタイの福音書5章12-13節
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。