■つぐないと従順
イエス様の十字架の死によって、私の罪が赦されたという論理を、以前は「古いビデオテープのダビング」というたとえで説明していた。神は私の言行をすべて記録しておられるが、イエス様を信じたときに、彼の言行がその記録に上書きされた。
つまり、過去の罪がすべて精算され、死に至るまで父に従われたイエス様の「正しさ」が、私の記録として書き込まれた。神は私に無罪宣告をし、イエス様のように正しい者として受け入れ、イエス様を愛するごとくに私を愛されたという説明だ。
これは、一方的な恵みの働き、一度も罪を犯したことのないものとして受容される根拠となる代償の完全性を、身近な例を挙げて説明するものだった。この例話は、回心した時点の信者が、完全に受容されている立場をよく表現していたと思われる。
だが、罪赦された私が神と一体となって歩むという人格的な親交と服従、また、服従の前提となる神的品性への変革という、今後の歩みにかかわる教えが含まれていなかった。神との交わりと弟子としての服従という二重の目的が欠落していたのだ。
確かにイエス様の十字架の死は、神との交わりの障害となる罪を取り除くという意味があった。しかし、回心者は、単に罪が赦されただけではなく、罪の奴隷状態から解放された者だ。彼は、王であるキリストに倣って生きるスタート地点に立った。
神は、罪赦された者たちが、罪と継続的に戦い、創造の目的を果たすことを願っておられる。それは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章28節)という命令の現実化だ。
罪赦されて神との交わりが回復させられた者に求められていることは、神を喜びながら生活し、神の声を聞いて従うことだ。神と親しく交わり、キリストに倣って従順に生きることを通して、神の代行者として神の国を地にもたらすことができる。
罪の精算と正しい者としての立場という「初歩の教え」(ヘブル6章1節)を後にして、神に従い、神とともに地を受け継ぐという「義の教え」(ヘブル5章13節)に進むときに、私たちは強められ、いやされ、やがてくる世の力を味わうようになる。
ヘブル人への手紙12章
ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。