■スピードとバランス

 

日本宣教停滞の理由を、福音理解の不十分さに帰する向きがある。「信じるだけで救われる」という「うまい話」を、真正面からガツンと受け取っていないために、自力で神の働きを成し遂げようとする、悪しき律法主義に陥っているという論調だ。

「神の恵みによって救われる」という基本を押さえないで、外からのプレッシャーや「自分を証明したい」という内からのドライブによって伝道しても、ともに働かれるイエス様を経験することができないし、何か起こっても自分の手柄にしてしまう。

一方、祈りや伝道の絶対量が少ないことが、不振の原因だと考える人もいる。1年に5人と関係を築き、3年後には2人が引っ越しし、2人とは連絡が取れなくなり、最後の1人は「糠に釘」という状態では、徒労感・閉塞感が漂うのも無理はない。

「恵みに満ち溢れる状態になったら伝道する」と考える人は、第一の関心事が自分の満たしになり、「出ていって伝えよ」という命令を無視して殻に閉じこもる傾向がある。その後は、伝道をしないためにスキルが磨かれないという悪循環が待っている。

「恵み優先派」と「伝道優先派」が論争すると、入口としての恵みと出口としての伝道という、プロセスの時期の違いという論理が持ち出されることとなり、結果として「無伝道症候群」や「律法主義」から抜け出せないまま議論を終えることになる。

プロセスの時期の違いという論理は、もっともらしく聞こえるが、実践を過度に静的に捉える机上の空論である。現場は、直線的にではなく、螺旋的に展開している。恵みを受けて出て行くことが基本だが、伝道して恵みを経験するという面もある。

「伝道の場こそが恵みの場」という統合されたアイデアに至るときに、恵みによって伝え、伝えることによって恵みを経験するという好循環が生まれる。人は伝道の場で、神の恵みを、人々とわかちあう喜びを知り、恵みのうちに成長していくのだ。

好循環が起こるために必要なのは、スピードである。回心直後に、恵みを確認すると同時に、恵みを分かちあう使命についてもバランス良く教える。鉄は熱いうちに打て。伝える喜びを初期に味わった人は、一生伝え続けるようになる可能性が高い。

教会が伝える喜びを味わい、それを実践しているなら、回心者は、それがキリスト者の生きる道だということを自然に理解する。共同体の価値観が、「失敗を恐れず、失敗から学ぶ」なら、回心者は継続的に励ましを受け、現場で建て上げられていく。

 

使徒の働き20章33-35節
「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、 私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」