■信仰による従順

 

人は皆、神のあわれみによって救われる。だがしばらく経つと、今度は、自分の意志や努力によって救いを得ようとして、あたふたし始める。律法主義に対する戦いは、福音書のみならず、使徒の働きや書簡でも取り上げられる核心的な主題である。

一方、律法主義の縄目から抜け出した人たちは、反動から、あらゆる規範をうさん臭く感じるようになり、「愛が目ざめたいと思うときまで」(雅歌2章7節)何もしなくなる。神の命令をどう受けとればよいのか、わからなくなってしまうようだ。

「神を愛するとは、神の命令を守ること」(第1ヨハネ5章3節)なのに、命令を守ると律法主義に陥るというのでは、ダブルバインドになってしまう。そのため、多くの人たちは、その日の気分に従って、恵みと律法の間を行き来することになる。

イエス様は言われた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11章28節)休んでいいのだと思っていたらすぐに、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(29節)と言われる。

このような誤解は、御霊に従う生き方を見誤ることによって生じる。イエス様は「罪のために」死なれたと同時に、「罪に対して」も死なれた。そのため、イエス様に結びつけられた者は、罪を犯すことができない。私は罪に対して死んでいるのだ。

ではその事実をどのように知ることができるだろう。人は信じた後も、罪を犯す。罪の想起によって、御霊の支配を理解することはできない。できるのは信仰による。つまり、神が「お前は私のものだ」と言われたので、そうだと受け取るのである。

パウロは勧める。「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6章11節)信仰が養われていくにつれて、私の内に生きておられるキリストを経験するようになる。

このように理解すると、私の従順も神のあわれみによるのだということがわかる。イエス様は信仰の成長をご覧になり、信頼して語られる。「このことに取り組みなさい。私が与えた御霊によってできるよ。」と。良い父は子どもを上手に育てられる。

神の言葉に応答して従うとき、内住のキリストが私を支えておられることを経験するようになる。従うほどに、信仰が成長し、より大きな働きを委ねられる。しかし、「それは私ではなく、私にある神の恵み」(第1コリント15章10節)なのである。

イエス様は「心優しく、へりくだっ」(マタイ11章29節)た方だ。だから、リスクを取ってくびきを負うことができる。「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」(マタイ25章24節)と思うなら、踏みだすことはできない。

 

ヘブル人への手紙11章6節
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。