■すべての信徒が宣教の主体者

 

先日、歴史的なギリシャ正教会の内部を見学した。東西ローマ帝国(あるいは、東西教会)の統合の象徴である双頭の鷲の上に、王冠をあしらった図柄の椅子を見つけた。これは、教会が世俗王権の保護下、と言うか支配下にあるという意味である。

教会史の中で、もっとも大きな分岐点は、紀元313年のコンスタタンティヌス帝によるローマ国教化だと思われる。それまでは、反社会的存在として迫害を受けていた教会が、社会の番人に、もっとはっきり言うと、国家が操る道具へと変化した。

生まれた瞬間から、人々は教会に組み込まれた。何に所属するのかを、自分で決めることができなくなった。非キリスト教社会という概念はなくなった。あるのは、帝国の秩序維持に貢献する良い教会員と、国家に刃向かう悪い教会員だけだった。

16世紀の宗教改革の時代、改革者たちは「信仰のみ」、「聖書のみ」、「万人祭司」という真理を再発見した。ところが、依然として、国家や世俗諸侯に協力する形で教会が機能していたため、「領地としての教会」という中世的教会観を保持していた。

神学は変わっても、教会の形は、旧体制と格段の差があった訳ではなかった。信徒はあくまで教職者と世俗権力の複合体によって支配される領民だった。すべての信徒に召命と責任があるという神学的命題が、教会形成に結実することはなかった。

唯一の例外は、アナバプテスト派だった。彼らは教会を、個人的に回心した信徒たちによる自発的な交わりだと考えた。人が滅びるか救われるかは、各個人の選択にかかっている。彼らは、カトリックからも宗教改革諸派からも激しく迫害された。

その後の歴史を見るとき、霊的覚醒や海外宣教運動はあったが、今日まで、宗教改革者たちが理解した万人祭司説は、教会形成と宣教に十分適用されてこなかったことがわかる。信徒はあくまで、教職者がいる教会堂に人々を連れてくる道具なのだ。

信徒をいかに活用するか、または、どう「小さな教職者」に仕立てるか、という議論がなされることがある。しかし、その前提自体が間違っている。全信徒はすでに祭司である。教職者はむしろ、宣教の主体性を信徒に返すことに取り組むべきだ。

ある人が教会を「会員が教会にとどまり続けるかどうかで生計が成り立つ自発的な団体」だと定義した。実際、予算の大半は、教職者のサラリーと会堂の保持で消えていく。だが、信徒はキリストのものだし、畑は色づいて刈入れを待っている。

私たちは、4世紀以来の歴史の分岐点に立っている。世界各地で、普通の人たちが、日常的に魂を刈り取り、人を育てて派遣している。疫病のように、国教を超えて福音が浸透している。教職者の役割は、それが起こるように信徒を励ますことである。

 

ペテロの第1の手紙2章9節
あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。