■トマスを派遣された主
イエス様の12人の弟子の1人に、トマスという名の男がいる。4つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカの各福音書には、使徒のリストに名前が出てくるだけだ。しかし、ヨハネの福音書には、彼にまつわるエピソードが3つ収録されている。
まず11章で、イエス様がエルサレム近郊のベタニヤに行こうとされたとき、彼は弟子の仲間に、「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」(16節)と言った。敵が待ちかまえている所に向かうことは、生命の危険を伴うことだった。
トマスは、その言葉の通り、一緒にエルサレムに行ったが、いよいよ危機が迫ったときには、主を見捨てて逃げ出した。結果を見ると情けないのだが、この時の気持ちは真実だったのだと思う。弱さと情熱を併せ持つ青年を、イエス様は愛された。
次に14章で、イエス様が「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(14節)と言われたとき、トマスが、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」(15節)と問いかけた。
他の弟子たちも同様に、主の行く道を理解していなかっただろう。しかし、トマスが代表して率直に、「ちょっと待って。わかりません。」と言ってくれたおかげで、他の弟子たちだけでなく、2千年後の私たちも告別説教を理解できるようになった。
まるで弟子集団の無理解が、トマスによって代表されているようだ。だが、その弟子たちを、主ご自身が選び、任命し、「愛を残るところなく示され」(13章1節)、「行って実を結び、その実が残る」(15章16節)ようにされたという点が重要だ。
最後は、20章である。復活の主が現われたとき、トマスだけが居あわせなかった。トマスは、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(25節)と言った。
8日後に再度主が来られたとき、トマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27節)トマスは答えて主に言った。
「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(29節)疑うトマスを咎めないで、信じることができるようにされた。トマスの疑いが、イエス様の寛容と忍耐を引き立てている。
十二使徒の中に疑う者がいたことは、私たちにとって大きな慰めである。人間的に見れば、いろいろ出来なくても、せめて信じる人じゃないと派遣できないと考えるのは自然だ。しかし、主は、トマスのような者にさえ、いのちの福音を委ねられた。
誰かを派遣するとき、主が承認されていない「自分のチェックリスト」を基に、「あなたはふさわしくない」と言ってしまっていることはないか。いざとなったら逃げ出すかもわからないが、「主と死のうではないか」と言う者をはずしてはならない。
もとより、私たちは「すでに」派遣された者たちなのだ。父と御子によって地上に派遣された「キリストのからだ」である。駄目だとか、まだまだだとか、あの人と比べてどうのこうのとか言っている場合ではない。胸を張って、光を輝かせなさい。
ヨハネの福音書20章21節
イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」