■隣人とはだれか

 

先日、浄土宗の若い住職と同席する機会があった。「住職と僧侶とは、どう違うのですか」と、聞いてみた。彼は胸を張って、「住職は身分だが、僧侶とは生き方です。」と答えた。続けて尋ねた。「僧侶とは、身近な人を愛する『人の道』のことですか。」

彼は「そんな小さな範囲のことではない。」と答えた。遠くにいて困っている人たちも、「愛する」対象に含まれべきだ、という説明だった。それで、また質問したくなった。「目の前の人を愛せない人が、遠くの人を愛することができるでしょうか。」

住職が答える前に、私たちの会話を聞いていた人が口をはさんだ。「私は障害者授産施設を経営しています。確かに取り組んでいることは、小さなことかもしれません。けれども、そこに来る人々を全力で助ける以上のことは、私には考えられません。」

全力で人を助けている、と言えるのは、素晴らしい。現場で戦っている人の言葉には説得力がある。住職は、「うかつなことは言えないなあ」と小声で言った。主は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マルコ12章31節)と教えられた。

十字架にかけられたイエス様は、息を引き取ろうとするとき、先立つ息子を見送るご自分の母に語られた。「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」もっとも信頼していた弟子に、母を委ねられた。イエス様は目の前の人にも、慈しみを示された。

「人類の救いのため」などと言うときに、一人ひとりの顔が見えなくなる。身近な人間関係の中で、「神のかたち」に造られた隣人を愛するなら、まずそこで神の支配の豊かさを経験するようになる。その祝福が、世界に流れ出ていく、と考えるべきだ。

 

マタイの福音書25章37-40節
すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」