■私の人生が完成される
神ご自身が弟子たちのうちに良い働きを始められ、しかも、「キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる。」(ピリピ1章6節)完全な神は、手を付けられたことを途中で放棄されることはない。必ずハッピー・エンドが待っている。
キリストの日には、弟子たちは「純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされ」(1章11節)るようになる。それが、設計者である神の人類に対する計画だ。
「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(ローマ8章30節)今のこの時の苦しみは、将来啓示される「栄光に比べれば、取るに足りない。」(ローマ8章18節)
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(第1コリント15章19節)死者の復活、栄光のからだ、主と共なる永遠の支配(第2テモテ2章12節)が究極の希望。
「私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」(ピリピ1章24節)再臨を待ち望む人は、目の前の出来事を相対化することができる。
パウロは、ただ自分が義の実に満たされる者となる、と信じただけでなく、キリストの弟子たちが皆、完成される日が来ると信じた。彼らの成長のためにした労苦が、むだでなかったことを、キリストの日に誇ることができると信じた(2章16節)。
このような最終的なイメージを描く者は、襟を正して神の愛に報いようとする。自分の弱さを嘆いたり、他者を裁いたり、働きの進み具合を見て焦ったり、だれかをうらやんだりするのは愚かなことだ。私の人生の作者は、ついに作品を完成される。
第1ヨハネ3章2、3節
キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。