■神のときめき
乳幼児のかわいい仕草を見るときに、心の底から親しみが湧き上がってくることがある。それと同様に、神は「ありのままの私」を見て、「愛しい」と感じておられるのかな、と思うことがある。聖書が描く神は、感情を豊かに表現される神でもある。
父がイエス様に、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3章17節)と声をかけられた時も、そういう情緒的な結びつきを「感じて」おられたのだと思う。神の御思いは、たびたび人間の親子の絆や、夫婦の情愛にたとえられる。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49章15節)「花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。」(イザヤ書62章5節)
「私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。」(雅歌4章9節)。神が私をご覧になって、「心をときめかせておられる」と考えるのは不謹慎なのかなあ。
ヤコブの手紙4章5節
それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。