■空気を読む

 

教室で場の空気を読まないと、「KY」などと揶揄され、いじめの対象となったり不登校になったりする。空気が読めないことは、そんなに悪いことなのか。教育現場では、自分らしさを認めたり、逸脱気味の友を受け入れる方が大切なのではないか。

確かに、状況を把握したり、的を射た話をするのは、関係構築展開のための技能ではある。だが、話の流れから逸れることに戦々恐々とするのは疲れる。誰だって、黙っていたい状態の自分を、そっと受け入れてくれる交わりがほしいときもある。

周囲の反応を読み取って行動することは、メッセージが人々の心の機微に触れるように伝えられるためには、効力がある場合もあるだろう。しかし、そういうときでも、場の空気に支配されることと、聖霊の導きに従うこととは根本的に異質である。

イエス様は、極端に「KY」な行動を取られたことがある。彼にはたくさんの弟子たちがいた。あるとき、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネ6章56節)と言われた。

「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった」(6章66節)さもありなん。恐るべし、イエス様。コミュニケーションを学んだ人ならずとも、「もう少し説明した方がいいんじゃない」と思うところだ。

人の顔色を見てはいけないときがある。たとえ殺されても、神が言えと言われるなら言うし、黙れと言われるなら黙るという思いきりが必要だ。また、いつも「愛に根ざし、愛に基礎を置いて」(エペソ3章17節)行動しているかを自問すべきだ。

 

ガラテヤ人への手紙1章10節
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。