■神の声を聞き分ける(その1)意識を向ける

 

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」とイエス様は言われた。それでは、神の口からどのぐらいの頻度で言葉が出るのだろうか。年に1度、毎週、それとも毎日。あるいは、もっと頻繁に語られるのか。

この問いは、「求めなさい。そうすれば与えられます。」という約束が、何回有効なのかという問いに似ている。答えは、年に3回とかというケチな回数ではない。「求め続けなさい。そうすれば与えられ続けます。」という、継続的で太っ腹の約束だ。

神は私たちにいつも語りかけてくださっている。父とイエス様は、言葉を守る者とともに住まれる(ヨハネ14章23節)。同居しておらられる神が、ずっと黙ったままだろうか。私たちは神との交わりに入れられたのだ(第1コリント1章9節)。

聖霊により、すべての人が神の言葉を聞く(使徒2章17-18節)。愚かで臆病な羊のような私でも、羊が羊飼いの声を聞きわけるように、私もイエス様の声を聞きわける。イエス様は、「自分の羊をその名で呼んで連れ出」(ヨハネ10章3節)される。

問題は、聞けないのではなく、聞こうとしない点にある。神が最初幼子サムエルを呼ばれたとき、彼は気づかなかった。しかし、「お話しください。しもべは聞いております。」(第1サムエル3章10節9)と申し上げたときに、聞くことができた。

「神がいつも語っておられ、その声を聞くことができる」という前提に立って聞き始めるべきである。意識して聞かないことは、自分にとって大きな損失だという以上に、戸の外でたたいておられる主を閉め出して、交わりを拒絶することなのである。

 

ヨハネの黙示録3章20節
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。