■神の声を聞き分ける(その2)失敗を恐れない

 

ヘブル人への手紙5章14節に、「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」とある。ミルクや離乳食以外の「歯ごたえのある」霊的食物を味わうためには、感覚の訓練が必要だ。

ここで、知性の訓練ではなく、感覚の訓練と書かれていることが重要だ。初めて自転車のサドルにまたがって、一度も倒れずにすいすい乗れるという人はいないだろう。自転車に乗るために、知識はあまり必要ない。問題は、感覚を訓練することだ。

どのように感覚が訓練されるのか。それは、何度も失敗することを通してである。失敗を恐れて、乗り始めなかった人は、いくら勉強しても乗れるようにはならない。失敗を恐れず失敗から学ぶというプロセスだけが、感覚を身につける道なのである。

聞き間違うことを恐れて聞き始めなければ、せっかく語られているのに、生涯神の声を知らずに過ごすことになる。聞き間違えたことがわかれば、「神様ごめんなさい。間違いました。次は、聞き間違わないようにさせてください。」と祈ればよい。

新人の看護士は、注射を何回も失敗することがある。その姿を、ベテランが後で見守っている。患者にはかわいそうだが、自ら試行錯誤することを通して学ぶ以外に、注射の技術は身につかないそうだ。もし、士長が助けると、病院は機能しなくなる。

もし、少数の者だけが神の声を聞き、他の者たちがお伺いを立てる教会があるなら、機能不全に陥っている。指導者は、皆を守るという良い動機ではあるが、失敗する機会を奪うことで、1人ひとりに直接語ろうとしておられる神の働きを妨げている。

成熟した人でも、十年前の考えと今の考えが、まったく同じということはない。成長するとは、そういうことだ。万人が神の声を聞くという「わくわくする冒険」に踏み出すなら、キリストのからだとして機能する。からだは、頭なる主が守られる。

 

箴言24章16節
正しい者は七たび倒れても、また起き上がる。