■神の声を聞き分ける(その3)Step by Step
時に主は、「かすかな細い声」(第1列王記19章12節)で語られる。だが幸い、聞き始める時点で、言葉はすでに心の中にある。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる。」(ピリピ2章13節)
心の中には、志以外にも、恐れや不安や迷いや焦りがある。それらがあることに気づいてがっかりする必要はない。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。」(エレミヤ17章9節)ただ、「神がくださった志は何ですか」と聞けばよいのだ。
初めは、それが何かわからないこともあるだろう。しかし、あまり慎重になりすぎては練習ができない。「これかな」と思うものを取り上げ、「神様、これがあなたからの思いだと思うのですが、どうでしょうか」と言ってみる。口に出すのも練習だ。
口に出して祈り、自分の心に「フィット感」があるかをチェックする。違うと思ったら、手放して再度トライする。そして、自分の心を点検する。「そうだ」と思ったら、書いたり、誰かに話したりする。そして、心に波風が立っていないかを調べる。
もし「フィット感」があるなら、「神様、これだと思います。もし、私が正しく受け取っているなら、次に何をすればよいですか。」と祈る。その時、感覚を研ぎすませて、「向かい風」か、「追い風」か、つまり神が支持されているかどうを思い巡らす。
いつまでも眺めていないで、「聞ける」と信じて、こういう心の作業を繰り返すことが大切だ。祈ったり、書いたり、話したり、黙想したりしているうちに、「それっぽい」が、「きっとそうだ」に、さらに、「それに違いない」と、確信が深まっていく。
トレーニングの時には、1分間黙想した後、「今、心にある思いを書いてください。一言書くと次が与えられることもありますから。」と言う。すらすら書き出す人もいるし、一言で止まる人もいる。だが、ほぼ全員が何かを書く。それも信仰の一歩だ。
短時間の練習でも、「何メートルか自転車に乗れた」という経験をすると、後で1人でも練習してみようという気になる。それと同様に、安全な環境で、思い切って内にある言葉を意識化することの楽しさを味わうことが、トレーニングの目的だ。
インストラクターの基本的な役割は、正しい聞き方を教えることでも間違いを正すことでもない。神の心を受け取ろうとして練習を始めた参加者を承認することである。肯定的要素に注目して励ますと、否定的要素は自然にフェイドアウトしていく。
やっても駄目だったという人も出てくる。しかし、練習を始めたことに意味がある。他の参加者が、少しずつ神の声を聞けるようになっていく様子を見ることで、もし、神の御心に対する渇きやあこがれが与えられたなら、それだけで大きな前進である。
信仰生活の初期段階で、神の声を聞き分ける練習を始めた人は幸いだ。どんなに練習しても、経験を積んでも、聞き間違えることはあるが、それを恐れていては、いつまでも聞けない。「強くあれ。雄々しくあれ。」御霊が導かれる世界が待っている。
使徒の働き8章29節
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。