■金銭管理(その1)縛られるか用いるか

 

デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という命題を提唱したが、物質主義的な社会では、「我買う、ゆえに我あり」という方が、現状を反映している。現代人は、「たよりにならない富に望みを置」(第1テモテ6章17節)くことで自分を確認する。

だがそれは、現代に限ったことではない。むしろ、金銭や富を求める人間の欲という普遍的な課題である。聖書には、十分な可処分所得を得た人が、自分のたましいに向かって語りかけた言葉がある。「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

「しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ19章21節)

神が人の独り言を聞かれ、厳しく応答された。身が引き締まる思いがする。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。」(マタイ6章20節)天に宝を積むとは、何を意味するのか。

金銭は、使命を達成するために必要なリソースであって、自己目的的に蓄積したり濫用したりしても祝福はない。目的外使用をする者からは、取り上げられ、正しく用いる者に改めて委ねられる。使命を達成する者には永遠の報酬が用意されている。

その報酬とは、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25章21節)と愛する主に評価されることだ。それこそが報酬なのだ。

この一点から目をそらす人生は無為である。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。」(伝道者5章10節)金銭は恋愛の相手のように、献身を要求するが、その報酬は無慈悲な没落である。

「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」(第1テモテ6章10節)金銭を愛することから派生して悪が増殖し、人生が台無しになる。

金銭を握る者は、金銭に握られる。手放していないと奴隷にされる。猿の手がやっと入る大きさの穴を開けて、その中に餌を入れ、猿が取ろうとしたら捕まえにいくという捕獲法があるそうだ。猿は餌を手放さないために、自分が捕まってしまう。

金銭管理という課題は、回心直後に扱うのがよい。「我買う、ゆえに我あり」という自己確認の仕方は、単に虚しいばかりか、悲惨な運命が待っている(ヤコブ5章1節)。「我従うゆえに、我あり。」神に従い、神のうちに自分を見いだす人は幸いだ。

 

マタイの福音書6章24節
だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」