■神が曲げたもの

 

人は転ぶと、まず石のせいにする。石がなければ、坂のせいにする。そして坂がなければ、履いている靴のせいにする。人はなかなか自分のせいにはしない。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言16章25節)

自分の方が正しいと主張しあうことによって、人間関係が壊れてしまう。しかし、どれだけ、全体を見渡せる人がいるだろう。謙遜な人は、「ぼんやりとしか見えません。」「今、私は一部分しか知りません。」(第1コリント13章12節)と告白する。

神に対してさえ、不遜にも、「あなたはなんて不合理なことをされるのですか。私が治める方が、もっとましなことができます。」と文句を言うことがある。「つぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。」(第1コリント10章10節)

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。」(伝道者7章13節)もし、神が曲げておられるのなら、直すことができない。人生には、手に負えないことがたくさんある。「なぜ、曲がっているのか。」と問うても虚しい。

「神よ、 変えることのできるものについて、 それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。 変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。 そして、 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」(ニーバーの祈り)

私たちの目には曲がっていると思えることが、本当はそれほど悪くないことだってある。神が造られた自然の中に、直線運動はない。曲線は、生命の美しさを表わす。全体を、最後まで、見通しておられるのは神だけだ。それを知ることが知恵である。

 

箴言1章7節
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。