■雑踏の中でも

 

アダムは、神と語るための堅苦しい様式を持っていなかった。聖なる時間に、聖なる場所で、聖なる儀礼をすることはなかった。神と人は、家族のように交わった。罪を犯して神と離れた人間を、その交わりに回復させることが御子の使命だった。

イエス様は地上の生涯で、絶えず父と交わられた。「わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。」(ヨハネ5章30節)とおっしゃっている。父と子の交わりは、まるで呼吸のように続いていたと思われる。

そのイエス様が、十字架上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27章46節)と叫ばれた。「私たちのそむきの罪のために刺し通され」(イザヤ書53章5節)た。身代わりに父に捨てられ、交わりを絶たれた。

イエス様の犠牲により、私たちは「御父および御子イエス・キリストとの交わり」(第1ヨハネ1章3節)にあずかるようになった。私たちは、アダムのように父と御子と会話する。神を「アバ、父」(ローマ8章15節)と呼ぶことができるのだ。

家族と話すときに、特別の「面会室」に行く人はいない。イエス様が本当に家族なのなら、非日常を演出する装置にどれだけの意味があるだろう。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」(詩篇34章1節)

儀礼は、聖なる方との交わりを確認するための仕組みである。ところが、たとえ儀礼がなくても、いつでも主と語り合うことができる。雑踏の中でも、通学の途中でも、仕事中でさえ…。神は友と語るように私と語られる(出エジプト33章11節)。

 

ヘブル10章19節
私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。