■伝道(その3)光っている人を助ける
イエス様は、「平安の子」(ルカ10章6節)がいたら、その人に関わるようにと言われた。ニール・コールは平安の子を蛾にたとえている。ゴキブリは光に照らされると逃げるが、蛾は近づいてくる。ゴキブリを追いかけないで、蛾だけをつかまえる。
「真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネの福音書3章21節)平安の子は、心を開いている。また、真理に渇いている。そればかりか、共同体の中に留まって宣教を手伝う。
平安の子の特徴を、「光って」いる人という言い回しで覚えている。「ひ」は開いている。「か」は渇いている。「て」は手伝う。弟子たちの証に興味を持ち、心を開いて教えを聞こうとする人たちがいるが、必ずしも真理に渇いているとは限らない。
開いてはいるが渇いていない人とは、真理を生活に適用しない人のことだ。いつも得になること、都合のよいことだけを求めている。神に従うために、何かをあきらめようとはしない。むしろ、神様を「利用」して、自分の願望を達成しようとする。
そういう人は、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13章20、21節)
開いていて渇いてもいるが、宣教を手伝わない人もいる。関心が内向きになっているので、自分の満たしや問題解決を福音宣教よりも優先してしまう。その人は、「この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない。」(22節)
手伝う人とは、外からの働きかけに応答して、内で宣教を担う人だ。「家族や友人がみことばを受け入れる」という神の御心を悟る人だ。「その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結」(23節)ぶ。
心を開いて耳を傾けるが、気がつくと、いなくなっている人がいる。真理に渇いているが、自分のことばかり考えている人がいる。聖書には、実を結ばない種類の土地があると記されている。だから、必要以上に責任を感じて失望してはならない。
この人はと思った人が去って行っても、精一杯ケアしている人がちっとも外向きにならなくても、聖書通りのことが起こっているのである。しかし、救われてすぐに、信仰を分かちあい始める人たちがいる。その人が未来を開く。その人を助けなさい。
第1テモテ2章4節
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。