■使命の遂行と問題の処理

 

尊敬する先輩が逝去された時、その方が生前、ご自身の働きを私に引き継がせたい、とおっしゃっていたと間接的に伺った。そのように思ってくださったことは、光栄なことだった。それで、短期間ではあったが、ご遺志に従い一所懸命に取り組んだ。

イエス様が弟子たちに最後に託された言葉は、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28章19節)だった。小さな者たちに期待し、大事業を委ねられた。信頼して任された仕事を、いい加減に扱うことができようか。

復活の主は、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20章21節)と命じられた。地上の生活は、イエス様から派遣されたものとしてどう生きるか、という一点にかかっている。

出て行って、諸国の民を弟子とする、という使命を担うときに、神はすべての必要を満たされる。それは、遣わした側の責任だからだ。教会がこの使命を脇に置くとき、様々な問題に直面するようになる。神は試練を通して教会の方向を正される。

アブラハムが祝福を受けたのは、「地のすべての国々は、彼によって祝福される。」(創世記18章18節)ためだった。イエス様の弟子たちは、最高の賜物であるイエス様をいただいている。その後にいただくものは何であれ、イエス様以下である。

父が、「いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えにな」(エペソ1章22節)ったのは、あらゆる国の人々が、父と御子の前にひざをかがめ、みことばに従順に歩むことを通して、神の国の祝福を受けるようになるためである。

教会は使命を自覚して、世界に対して証を立てているだろうか。それをしないで、「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」(マルコ4章19節)に対抗するのは至難の業だ。世界の弟子化という御心を悟る人が、実を結ぶようになる。

 

マタイの福音書13章23節
良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。