■手間をかけても…
使徒の働き第8章に、サマリヤで起きたリバイバルの報告がある。「汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。」(使徒8章7節)町に喜びがわきあがった。
その後、主の使いがピリポに向かって言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(26節)彼はその言葉にすぐに従い、豊かな収穫の地を後にした。予め天使から、次のミッションがどういうものかという説明はなかった。
エチオピアの宦官を救いに導く働きは、人間的には効率が悪いように見える。わざわざピリポに天使を遣わし、馬車がちょうどそこを通るようにし、宦官にイザヤ書を読むように導かれた。主の使いが直接宦官に顕れて、説明する方が手間要らずだ。
それに、この働きは短時間で済んだ。宦官が水から上がると、「主の霊がピリポを連れ去られた」(39節)とある。わざわざピリポを登場させられたのはなぜか。全能の神がピリポと共に働きたいと思われたので、先回りしてお膳立てをされたようだ。
ピリポが姿を消した記事は、「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5章24節、ヘブル11章5節)という事件を思い出させる。手を広げて歩いてくる幼児を、可愛さあまって抱き上げる父親を連想する。
神に信頼し、一足一足御声を聞いて進んでいく。そこには、人間的な執着や自分勝手な計画はない。アダムの創造のときに、神が意図しておられた交わりが再現されている。神は手間をかけたいのだと思う。子どもたちと働くことが父の喜びなのだ。
第2歴代誌16章9節
主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。