■教会増殖ムーブメントと共同体開発

 

先日、東南アジアのある国を訪問した。国民の75%が賄賂を当たり前とし、60%が選挙の票買いを当然と見ている国だ。大臣はすべて首相の親戚。政府予算の半分は、彼らのポケットに入るらしい。30足らずの家族が、ほとんどの利権を握っている。

フィリピンの友人にその話をすると、途上国のお家事情はどこも似ていて、支配層が30家族ではなく、200家族という違いしかないとのこと。民主政治を志す立候補者は、1人200万円で請け負った暗殺者に殺されるそうだ。腐敗が恒常化している。

途上国への援助物資は、三段階で盗まれると曾野綾子氏は言う。まず、為政者が盗み、村に届く途中で軍や役人が盗み、村に着いたら地元の権力者が盗む。村長、公務員、小学校の先生、聖職者や援助団体職員に至るまで、汚職体質に染まっている。

そういうわけで、政府から政府への援助は、まず現場に届かない、と考えた方がよいという人もいる。民間から民間への援助でも、どう使ったかということが明確にされないことがある。援助はすべて美しい、という前提は疑ってかかった方がよい。

援助物資が、それを必要とする人に渡るまで見届ける仕組みが必要だ。だが、それだけで、本当に途上国の人たちが豊かになることができるのだろうか。問題は単純ではない。援助の仕方を変えても、援助するがゆえに解決できない問題があるのだ。

それは「援助慣れ」の課題だ。ジム・エリオットと4人の宣教師は、エクアドルのワオラニ族に派遣されたが、そこで殉教してしまった。後に、妻たちが、夫を殺した人たちに福音を伝え、教会が生まれた。『ジャングルの殉教者』に記されている。

最初の5人の宣教師の1人、ネイト・セイントの遺児であるスティーブは、後日そこを訪れて驚いた。とうもろこし畑は荒れ放題。経済は疲弊していた。宣教師が建てた教会は残っていたが、ドアは壊れ、窓は開けっぱなしで、雨漏りがしていた。

彼は、「これまで何をしていたのですか」と尋ねた。彼らは、「アメリカ人が種を携えて、もう一度やって来て、教会を修理してくれるのを待っていました。」と答えた。確かに福音は伝わっていたが、地元の教会はすっかり依存体質になっていた。

地元の人が、外部援助に頼らずに、自立的に村興しをするようになるためには、どうすればよいのだろう。宣教師が主導権を取り、地元民を説得し、外部の資源を注いで、何とか食べることができるようにするというアプローチには、限界がある。

どんなに貧しいコミュニティにも資源はある。神様は既存のリーダーシップを尊重し、彼らを救いに導き、キリストの品性を宿し、仕えるリーダーとして育て、彼らが主導することで、村が霊的にも社会的にも経済的にも自立するように導かれる。

教会増殖ムーブメントと共同体開発が、コミュニティの内側にいる人たちの手によってなされるときに、途上国の人たちと共に、神の国のために働くことができるようになる。そのための触媒となるような働きが、21世紀の宣教なのだと思う。

 

マタイ10章16節
いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。