■預言的に学問する?

 

ここ数ヶ月、時間を見つけては、蔵書を整理している。本を手に取りながら、生活費がままならなかったときにも、泣きの涙で古書を買い求めたことを思い出した。十年前までは、真理を見つけ出して発表することに、相当な意欲を持っていた。

もとより、「天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出」(伝道者1章13節)した古代の王のような徹底した態度ではなかったが、勉強が好きだった。諸事象の結びつきや仕組みを発見することは楽しい作業だ。

それは簡単ではないが、神にかたどって造られた人間に与えられた務めでもある。神は人に、「求めなさい」、「捜しなさい」、「たたきなさい」と命じられた。そして、その求めに応じる形で、時にかなって、ご自身の偉大さや美しさを明らかにされる。

ところが、私に委ねられた神の働きにおいて、今この時点で知るべきことは、それほど多 くはない。すべてのことが、平和や隣人の徳を高めることにはつながらない。「どうして も必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(ルカ10章42節)

学問の世界でも、この一事を聞き取る姿勢が必要だ。さもないと総花的な議論になり、「なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。」(伝道者1章14節)と嘆息することになりかねない。神学は元来、教会に仕えるものであるはずだ。

確かに、西洋の思想を日本語に翻訳して解説する学者も評価されるべきだと思う。だが、自ら神と聖書に向かい合い、現場の視点から切り出された新しい真理の側面を、現場で戦う仲間への励ましとして語る神学者が、今求められているのだと思う。

 

第1サムエル書3章10-11節
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。主はサムエルに仰せられた。