■風は思いのままに
「時間や場所や人や物を聖別する」という考え方が旧約聖書の中にある。「宮もうでの歌」と呼ばれている詩篇は、私のお気に入りだ。それでは、新約聖書ではどうか。確かに、十二使徒や「パウロ・バルナバ宣教チーム」は聖別されたと言えるだろう。
しかし、聖別した時間に、聖別した場所で、聖別した行為(儀式)をするなら、そこに主が臨在なさるという考え方は危ないな、と感じることがある。順番が違うような気がするのだ。むしろ、イエス様がおられる場所が聖なる場所なのではないか。
人間は天気予報は出せるが、日曜午前10時に風速3メートルの南東の風を、指定した場所に吹かせることはできない。風は思いのままにふく。聖霊の働きは操作できない。主の霊に連れ去られたピリポは行き先を指定できなかった(使徒8:39参照)。
だからと言って、定期的に集まらない方がよいという訳ではない。何のために集まるのか、という理由が問題なのである。二、三人イエス様の名によって集まるところに主がおられる。しかし、集まることが主を招く装置と誤解されるリスクがある。
決まった手続きを踏むと願い通りのものが手に入る自動販売機型の装置は偶像となる。そこに人格的な交わりは必要ないからだ。自動販売機ではなくて、神との愛の交流を促進するための媒体は必要だ。だが、常に絶対化される危険に晒されている。
ヨハネの福音書3章8節
風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。