■すぐに従う
ユダヤの三大祭りの一つに、過越の祭りと呼ばれるものがあり、出エジプト記にその祝い方が説明されている。この祭りはイスラエル民族が奴隷とされていたエジプトから脱出したことを記念し、神の救いを想起して感謝を捧げる重要な祭りである。
この祭では羊とパンを食べるが、ゆっくり食べてはならない。「腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。」(出エジプト12:11)と指示されている。神が「今が時だ」と言われると、すぐに行動しなければならない。
すぐに従うことが、王であられる神に対する僕としての当然の態度である。だが、人間の罪や弱さにより、神ご自身が猶予を与えられる場合もある。成長の過程の暫定的な導きとして、あえて課題の基準を下げたり、大きな課題を小さなステップに刻んでチャレンジされることがある。
たとえば、出エジプト後、目的地のカナンに行くためには、ペリシテ街道を通るのが近道だったのだが、神はそこに導かれなかった。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」(出エジプト13:17)と言われた。何百年も放牧をしていて戦いの訓練を受けたことがなく、女性や子どもや老人がいる民に、神は無理強いをさせられなかった。
神は幼子の手を引くように、私たちを導かれる。「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。<中略>わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。」(ホセア11:1-4)
しかし、成長するにつれて、大きな課題であっても、すぐに従うことができるようになっていく。イエス様はペテロに、「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ21:18)とおっしゃった。成熟するほどに「キリストに属する奴隷」(第1コリント7:22)として召された喜びを、経験するようになっていく。
パウロはテモテに、兵役についている者のように、また、規定に従って競技をするもののように振るまうようにと勧めている(第2テモテ2:3-7参照)。戦場で司令官の言葉を留保したり、ルールを無視して競技を続けることはできない。幼子はいきなり、兵士や競技選手にはなれない。彼らは訓練を受けなければならない。
幼子には、幼子が取り組むことができるチャレンジがある。子どものときにキャッチボールで遊ばなかった者が、甲子園に出ることはない。
ただ、キャパシティを考慮した上ではあるが、幼子であっても権威に従うことは妥協なく教えなければならない。過度に甘やかされた子どもは不安定になる。人間の尊厳と将来への希望についての正しい感覚を身につけさせるためには、愛をもって子どもを叱らなければならないことがある。
理想的な育成環境は、「すぐに」従って祝福を受けている大人たちの模範があり、子どもたちがそういう生き方に対するあこがれを持つようなる家庭なのだと思う。子どもが小さな従順を示したときに、それを認め、それを喜び、励まし続ける親や、親の役割を果たす大人が、そばいる子どもは幸いである。
第1ヨハネ2章12、13節
子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。