バプテスマのヨハネについては、聖書の中に最大の賛辞が記録されています。「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。」(ルカ7:28; cfマタイ11:11)他ならぬイエスさまが、ヨハネは、アブラハムよりもモーセよりもエリヤよりもダニエルよりも偉大な人物だと太鼓判を押されました。
このような大人物が、イエスさまと同時代に、イエスさまの公生涯の直前に世に出るように遣わされたのはなぜでしょうか。ヨハネのミッション、その生き方と死に方について考えてみましょう。
・道がまっすぐにされる
ヨハネのミッションは、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説くことでしたが、それは預言者イザヤが「荒野で叫ぶ声」と表現した行為でした。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐに」(ルカ3:4)することが、使命の内容でした。
「主の道」は、人となられた主であられるイエスさまが示し、自ら模範を示された「神の御心にかなう生き方」のことです。イエスさまが来られるときに、敬天愛人のライフスタイルを、人々が慕い求めるように整えることがヨハネのミッションでした。
では、「道をまっすぐにする」というのはどういうことでしょうか。それは、その言葉に続いて引用された預言の言葉によって説明されています。「すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」(ルカ3:5、6)
この意味は、ルカの福音書1章に収録されている「マリヤの讃歌」から解釈することができると思います。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」(ルカ1:51-53)
王であられるイエスさまが来られるときに、不当に低くされて「谷」に落ちている者は高く引き上げられ、高ぶって「山と丘」に上り詰め、権力を濫用する者は、その立場から引き降ろされます。平らかな道を主が造られることで、神のかたちに造られたあらゆる人が尊重され、全権力を掌握される王の前で、隣人への愛に基づいた正しい道を歩むようになる。それが、神の救いを見、救いの道を歩むという言葉の内容なのだと思います。
・悔い改め
そのように道がまっすぐにされるための最初のステップをヨハネは示しました。それが悔い改めです。「御国が来ますように」と祈ることは、自分の王座から降りて、自分の王国から去ることです。主に出会う前には、まるで王であるかのように、思い通りに時間や資源を使って生きてきた人たちが、古いライフスタイルを捨てて、王であられる方の命令を第一にする生き方を選ぶという方向転換が悔い改めです。
この悔い改めというステップを無視して、いくら学んでも、自己犠牲的な行為をしても、自分も、自分を取り巻く人間関係も変えることはできません。主を愛し、主のおし(教?)えを喜びとし、主の口から出る言葉に服従して生き始めるときに、「水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩篇1:3)という祝福を味わうことができます。
ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆に向かって言いました。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(ルカ3:7、8)
バプテスマは、自分に死ぬ行為です。王の前にすべてを明け渡して生きると決断することです。水に沈められる行為は、古い自分に死んで、王であられるキリストに結びつけられて生かされ、「悔い改めにふさわしい実」を結ぶこと、つまり、王の命令に従って意思決定し行動するようになることです。
ヨハネの人生は、王の到来の前に、王に従って生きようと決断をした人たちを用意するために用いられました。ヨハネがバプテスマを授けて悔い改めに導くことで、後から来られたイエスさまが、聖霊のバプテスマによって正しく生きる力を注ぎ、火のバプテスマによって罪と戦う力を与えてくださいました(cf: ルカ3:16)。
・シンプルで具体的な指示
では、どうすればよいのか、と聞く群衆にヨハネは答えました。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」(ルカ3:11)これは、具体的でシンプルな行動計画です。下着を二枚持つものがすることは、分けるか分けないかの二択です。小学生でも理解できます。ワークショップを開く必要も、本を読む必要もありません。
取税人には、「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません」(ルカ3:13)と教え、兵士たちには、「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい」(ルカ3:14)と勧めました。このようなシンプルで具体的な指示に力があります。
イエスさまも次のようにおっしゃいました。「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」(ルカ6:47、48)
神への従順というテーマで90分講義することができても、実際に神から聞いたことを行わなければ、土台なしで家を建てた人のように、川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなります(cf: ルカ6:49)。聖書の簡潔性に回帰するときに、より豊かな神の恵みを経験するようになります。シンプルに語りかけることが、神から遣わされたことの一つの証拠だと言えるかもしれません。
・使命の貫徹
ヨハネの偉大さは、使命の貫徹にあると思います。それを天外内の枠組みを使って考えてみましょう。
まず「天」ですが、彼は自分の使命をイザヤ書の言葉に基礎付けていました。「荒野で叫ぶ者」、これが私なのだ、と公言しました。自分の人生全体が、神によって預言されていた出来事であり、神が導かれる歴史の一部になるという自覚があったのです。
そして、その自覚が、彼のすべての行動を方向づけました。イエスさまはエルサレムという町を目指されましたが、ヨハネは荒野に止まって、いなごと野蜜を食べて生活しました。そして、集まってきた人々に向かって「声」として叫び、悔い改めのバプテスマを伝えました。何のために、何を、どのようにするのかを、使命によって判断して行動しました。「天」が「外」を規定しました。
「外」、つまり使命遂行への情熱は、ヘロデとの関係を示すエピソードによって明らかになっています。主の通られる道をまっすぐにするための「声」は、自分の元に集まってきた群衆に届いただけでなく、国主ヘロデに対しても向けられました。ヨハネがヘロデの姦淫の罪を糾弾したのです。その結果、彼は捕縛され、ついには斬首されます。
相手が誰であろうと恐れずに真理を語り、王の誤りを正そうとしました。自分の生命よりも、自分の活動を通して神の義が表わされることを求めました。ただ一筋に使命遂行を優先するという生き方は、イエスさまの死を予表し、イエスさまの御苦しみを先取りする行為でした。
「内」は、ヨハネが結んでいた関係です。ヨハネが投獄される前に、ヨハネの弟子たちがヨハネに尋ねました。仲間の多くが、イエスさまの方に行ってしまうのはなぜかという質問でした。ヨハネは、自分がキリストではなく、その前に遣わされた者だという、常日頃弟子に言っていた言葉を告げた後、次のように語ります。
「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。」(ヨハネ3:29)
弟子たちが去っていくという目に見える現実の中で、ヨハネは喜びで満ち足りていました。花婿である主と、花嫁である神の民が結ばれること、それが、彼の目指すところだったからです。ヨハネは、花婿や花嫁と自分の間にあった見えない結びつきを意識しながら使命を貫徹していったのだと思います。
・質問
今回の記事の締めくくりは、まとめではなく質問の形式にいたします。一人で自問するなり、グループで発表しあったりしてみください。また、その結果を教えていただければ幸いです。
1 神のかたちに造られたあらゆる人が尊重されるために、為すべきことがあるでしょうか?
2 あなたの人生の王座にイエスさまが座っておられますか? その結果何が起きましたか?
3 神からの指示はシンプルで具体的です。神はあなたに何をせよとおっしゃっていますか?
4 人生を貫く使命は何ですか? 自分の使命を表現している聖書の言葉は何ですか?
5 たとえ、生命の危険にさらされても、行動すべきことは何でしょうか?
6 イエスさまとイエスさまに従う者たちが抱いている喜びを共有するときがありますか?
福田充男
【RAC通信プラス】 – 2020.04.07号…【有料版】第220号 福田充男