■世代間の和解

紹介文
親と違う道を進むことと、親を敬うことは両立するのだと思います。それが神のデザインです。そのデザインに従うときに、「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という約束がついています。十戒の中で約束付きの戒めはこれだけです。


・新しい世代への励まし

モーセ五書からヨシュア記に読み進むときに、視界の悪い沼地を抜けて広大な草原に出たような気持ちになることはないでしょうか。40年の荒野の放浪から解放されて、新しい世代の人たちが新しい地に向かって進んでいく様子は、勇壮で活力に溢れています。

荒野の40年間は裁きの時代でした。「一つの世代の者たちが死に絶えるのを待つ」という、ある意味、残酷な期間でした。しかし、その時代が過ぎて、次の世代が立つようになりました。それを率いたのがヨシュアでした。ヨシュア記第1章は、モーセが死んで、ヨシュアを神が励ますところから始まります。

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。<中略>あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:3-5)

なんとも希望に満ちた宣言ではないでしょうか。ヨシュア記には、この約束の通り、イスラエルの民が神に励まされて、次々と異民族を滅ぼし、領土を獲得していった様子が描かれています。

・前世代の特徴

このようにヨシュア記の輝き、特に若い世代の活躍に注目するとき、モーセの時代がかすんで見えてしまいます。ところが、出エジプト記から申命記を、救済史の視点で俯瞰してみるとき、モーセの時代には、旧約聖書における最も重要な出来事が目白押しだったことがわかります。

まず、エジプト脱出は新約聖書の救いの予型(予兆)でした。イエスさまは、変貌山で、ヨシュアではなくモーセとエリヤと三人で、エルサレムで遂げようとしておられる「最期」について話し合ったと記されています(cf. ルカ9:31)。この「最期」の原語は「エクソドス(出立)」で、出エジプトの「出」に当たります。モーセはエジプトで奴隷とされていたイスラエルを救い出しましたが、 イエスさまはいわば第二のモーセとなって、ご自身の死と復活を通して、罪の奴隷となっていた人々を解放してくださいました。   

パウロは、コリント人への手紙第10章1-4節の中で、イスラエルは、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲んだと書いています。岩としてご自身を表わされたキリストが、荒野に入ったイスラエルについて来られ、渇く民に水を供給されたのです。

このような神の恵みとあわれみに対して、人々は正しく応答しませんでした。ヨシュアとカレブ以外の同世代のイスラエル人は、荒野で滅ぼされ、約束の地に入ることが許されませんでした。その時代の人たちが悪を貪り、偶像礼拝者となり、姦淫をし、つぶやいたからです。

少し本論から逸れますが、少しだけモーセの最後に注目してみましょう。彼は、顔と顔を合わせて主と語ることができる稀代の預言者でしたが、自分が強く願ったにもかかわらず、約束の地に足を踏み入れることは許されませんでした。山上から遠くその地を見るところまでが、神のギリギリの裁定でした。そのモーセが、死後ではありますが、変貌山でエルサレムに立たせていただけたことは、神の特別なご配慮だったのだと想像します。

・次世代へのとりなし

話を元に戻しましょう。ヨシュアとともにカナン侵入を果たした人たちは、前世代に荒野で滅ぼされた人たちの子どもや孫の世代でした。親や祖父母たちは、異民族を恐れて戦わず、神に逆らったのですが、ヨシュアの世代は、リスクを取って神に従い、約束を受けました。そういう意味では、前世代の轍を踏まずに、新しい道を進むという方向は正しかったと思います。

祖父母や親たちも、子どもたちの幸せを願って「私たちのようにはなるな」と教えたと想像するのが自然です。また、その頃はモーセも健在だったのですから、自分たちの失敗も含めて、エジプトでの、そして荒野での神の偉大さを伝える物語を、子や孫に語り聞かせたのだと思います。

もし、そうなら、今の世代の勝利は前の世代のとりなしの結果でもあるとは考えられないでしょうか。それはその世代だけの勝利ではなく、前の世代をも含めた神の民の勝利だと理解するのは厚かましいでしょうか。

私ごとですが、小学生の高学年の頃だったでしょうか。親や年配の人たちに対して生意気な口を利くことがありました。そのようなときにはよく、「一人で大きくなったような顔をして」と言われました。その時点では、「幼い頃の話をここで持ち出すのはフェアではない」と思い、納得できない気持ちになったことを思い出します。

けれども、自分が子どもを育てるようになったときに、親たちの気持ちがわかりました。子どもが一人前になるまでに、どれだけの手数と思いがかけられることでしょう。どれだけ、親は子どものために祈り、将来の幸せを願うことでしょう。荒野で滅んだイスラエルのように、自分たちの失敗を自覚している親たちは、なおさら子どもたちの幸せを願ったはずです。

・子たる者よ

十戒の第五戒は「あなたの父と母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(出エジプト20:12)です。親の生き方とは違う生き方を子が選択することはあるでしょう。子にとっては、「親のようにだけはなりたくない」と思うようなときもあるかもしれません。

けれども、モーセなしにヨシュアがなかったように、親なしに子どもは育たなかったのです。親と違う道を進むことと、親を敬うことは両立するのだと思います。それが神のデザインです。そのデザインに従うときに、「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という約束がついています。十戒の中で約束付きの戒めはこれだけです。

とは言え、親の方も、神から育成にかかわる権威を与えられた者として、果たすべき責任があり、親は親で神に従うことが求められます。ただ、申し上げたいことは、世代間の様々な葛藤や確執を持ったまま、新しい地に進むことはできないという点です。子どももやがて親になるのです。

襟を正し、相互に受け入れあい、必要ならば傷をいやしていただきながら、世代間で和解し、協力しながら、地に神の支配をもたらすことが、私たちに求められていることです

福田充男

RAC通信プラス】 – 2019.03.03号…【有料版】第219号 福田充男