■地の塩 – 三方向への愛

「山上の垂訓」は、「心の貧しい者の幸い」から「義のために迫害されている者の幸い」までの、8項目の「幸福の教え」から始まります。それらの幸福を得るためにはどうすればよいかという具体的な実践提案が、後に続くのですが、その端緒を開くのが、「あなたがたは地の塩である」という宣言です。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

この宣言は、「山上の垂訓」の、いわば本編の扉なので、包括的でありつつ、実践へとつなぐ橋渡しの役割を担っていると考えられます。この重要な言葉を、天外内の枠組みを用いて解釈することがこの記事の目的ですが、「塩の契約」と対照しながら考察してまいります。

・塩の契約

聖書の中に2箇所、「塩の契約」という言葉が出てきます。民数記18章と第2歴代誌13章です。民数記の方はアロンとその子孫の祭司職について、歴代誌の方はダビデとその子孫の王職について神が結ばれた契約を指しています。まずは、この「塩の契約」から「塩」の意味について考えてみましょう。

1)親密な交わり

祭司にしても王にしても、神の職務を地上で遂行する「神の代理としての役割」であるため、その職に任じられるためには、神と親密な関係を結んでいる必要がありました。神と気心の知れた関係の中でその本心を知る者でなくては、神の心を職務に反映させることはできません。

塩は現代では一般庶民の調味料となっていますが、近代以前は高価な産品でした。たとえば、古代ローマ時代、兵士の給料として塩が支払われていました。サラリーは、ラテン語で塩を意味する「sal(サール)」から派生した言葉です。生命維持に不可欠な塩は、貨幣として用いられるほど貴重だったのです。

このような高価な塩が、家族や友人との親しい交わりの食卓に置かれて分かちあわれます。塩は、気のおけない交わりのシンボルだったのです。それと同じように、神と人が契約を交わす食事の場でも、塩は、その豊かな交流を象徴するアイテムでした。高価な塩を惜しみなく分かち合いながら食事の会話を楽しむという関係が、「穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい」(レビ2:13)という命令の背景にあるイメージです。

2)神に従い他者を生かす脇役

第2歴代誌13章で、神が預言者アビヤを通して「塩の契約」について述べられた文脈は、ダビデの血統であるレハブアムの不従順ゆえに、王職契約の遂行が限定的になるという危機的な状況でした。一方、政敵であったヤロブアムは、アロンの家に排他的に与えられていた祭司職の契約を軽んじて、ベテルとダンで偶像を作り、自分勝手に祭司を任命しました。

神との親しい交わりを許された者たちがなすべきことは、神に従うことでした。祭司や王の職務が、アロンやダビデの子孫によって、また、後に選ばれたヤロブアムによって担われるための前提は、ヤハウェに対してのみ、自分を捨てて、心を尽くして従うことでした。主役はヤハウェで、王や祭司は脇役です。

ヨブ記6章6節には、「味のない物は塩がなくて食べられようか」とありますが、塩は料理の素材を引き立たせる脇役です。古今東西、メインディッシュが塩だという話は聞いたことがありません。王として、また祭司として召された者たちは、自分を誇ったり、その立場に安住したりするのではなく、自分を捨てて、選んでくださった神に従い、民と世界の幸せのために仕えることが求められます。

3)共同体への不変の契約

これら二つの契約は、アロンやダビデという個人だけでなく、世代を超えて彼らの子々孫々にまで適用される契約でした。そのため、神は、朽ちることも変化することもない塩の不変性を引き合いに出して「塩の契約」と呼び、その約束の永続性を確約されたのだと考えられます。

付言するなら、約束は「アロン家の奉仕によって成立する祭司制」と「ダビデ家の子孫が神に聴従することによって統治する王制」という神が認証された仕組みを受け継ぐイスラエルという民族全体への約束だと理解することができます。

ここに塩の契約の永遠性(縦の連帯)とともに共同性(横の連帯)を見ることができます。旧約聖書の中には、民が主を恐れて、「ひとりのように出てきた」(第1サムエル11:7)というエピソードが散見されます(cf. 士師20:1, 8; 第2サムエル19:14; 第2歴代誌5:13; エズラ3:1; ネヘミヤ8:1)。神は共同体が結束して神の前に出ることを求めておられるのだと思います。

・塩として地に撒かれる

以上の「塩の契約」についての考察を引き継いで、「地の塩」の意味を、天外内で解釈してまいりましょう。

1)天 – 神と民が「呼びかけ応える関係」

マルコの福音書3章14、15節には弟子召命の2つの理由が記されています。「イエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」第1の理由は交わりであり、第2の理由は派遣でした。

イエスさまはしばしば、存在(being)を行動(doing)よりも優先されました。ほぼ全員ティーンエイジャーだった無学な一握りの人々の群れが、世界を変革するようになった第1の理由は、弟子たちがイエスさまの身近にいて親密な関係を経験していたからです。

すべてを超越しておられるキリストが、人の間に住まわれ、人格的に交わる相手として弟子たちを選ばれました。現代に生きる私たちもまた同様に、神と会話する者として選ばれました。私たちの存在自体が神の目に尊く見られ、神に喜ばれていて、神と友のように話すことができます。そのような立場を、すでに得ているのです。

イエスさまは、私たちに「あなたがたは、地の塩です」とおっしゃいました。これから頑張って「地の塩」となるのではありません。すでに「地の塩」、つまり、神の呼びかけに答えて御心を地に示すために派遣される者とされています。

2)外 – 人々に寄り添う関係

「地の塩」が「世界の光」の前に配置されていることが重要だと私は思っています。なぜなら、信頼関係のないところでいくら正論を語っても伝わらないからです。他方、愛を動機として、自分のことを後回しにするような人の言葉は信用されます。

対決するのではなく、相手と和合して、人々の傍らに立って一緒に進むためには、「火によって、塩気をつけられ」(マルコ9:49)、自分自身のうちに塩けを保たなければなりません。これはどういう意味なのでしょう。

第1ペテロ1章7節では、「火」は、信仰を精錬するための試練を表現しています(cf. 黙示録3:18)。火で焼かれることは最終的な永遠の刑罰の象徴(cf. マタイ3:10-12; 第2ペテロ3:7; ユダ1:7; 黙示録21:8et al.)なのですが、生きている間に試練に耐えて精錬された者には、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉が与えられます。それゆえに、信仰の試練は金よりも尊く、試練を受ける聖徒たちは喜び踊ると記されています(cf. 第1ペテロ1:8)。

山上の垂訓でも、「地の塩」について述べられる直前に、同様の幸いについて記されています。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」(マタイ5:11、12)

試練の中で神を崇め、迫害する者たちを愛してとりなし、精錬された者たちに与えられる報いを思って喜び踊ることが、塩気を保つことなのだと思います。それは自分に死ぬことでもあります。愛に基づく「十字架の生き方」を、人々に寄り添うという行動で示すことが、「地の塩」的な証言なのだと思っています。娼婦や取税人の友となられたイエスさまの生き方を彷彿とさせます。

3)内 – 互いに愛し合う関係

「地の塩」だという宣言は、「あなた」という単数の人ではなく、「あなたがた」という複数の人々に向けられていました。では、「あなたがた」とは誰でしょう。弟子だけではなく、多様な背景を持つ大ぜいの群衆でもあったと考えられます。

垂訓の直前に、「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った」(マタイ4:24)とあり、垂訓の締め括りの節に、「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた」(マタイ7:28)とあるからです。さまざまな地域で、イエスさまから御国の福音を聞き、病気や痛みをいやしていただき、悪霊から解放された人たちが、イエスさまにつき従ってきました

その上、彼らの多くは、後日、義のために迫害を受ける人たちだと考えられます。だからこそ、そのような迫害が起こる前に、いざ起こったときのための心構えが予め伝えられたのです。あなたがたより前に来た預言者たちが迫害されたように、あなたがたも迫害されます。そのときに「塩け」を保ち、敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさい(cf. マタイ5:44)。そうじゃないと、ただ単に理由なく抑圧されている者たちのようになってしまいます。

そのような迫害を、共に忍ぶ者たち(複数)なのだから、「兄弟に向かって腹を立て」(マタイ5:22)てはなりません。兄弟を「さばいてはいけません。」(マタイ7:1)むしろ、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」(マタイ7:12)と勧められました。

・まとめ

イエスさまが「あなたがたは地の塩です」と語られたときに、「塩の契約」を意識しておられたかどうかは不明です。しかし、山上の垂訓を読む私たちは、主の御許に集まった弟子たちや群衆とともに、1)神との親密な交わり、2)自分に死んで神と人に仕える職務、そして、3)結束する神の民の交わり、に招かれていると解くことができます。

マタイの福音書は、迫害が実際に起こっている環境の中で書かれたと考えられます。「あなたがたは地の塩」であるという宣言の中に、1)神を愛し、2)迫害者を含む世界の人々を愛し、そして、3)兄弟たちが相互に愛し合うという三つの方向への愛が、コンパクトに表現されているのだと思いました。

福田充男

RAC通信プラス】 – 2020.07.07号…【有料版】第222号 福田充男