先日、「きみが還る場所(90 Minutes in Heaven)」という映画を観ました。「還る場所」が用意されているという証言は、リアルで力強く、永遠の主との交わりを希求する思いになりました。他方、「福音とは天国に行くためのパスポートを、主が十字架と復活の出来事を通して与えてくださったことだ」と言い切ることには違和感がありました。神の国の福音は、もっと裾野の広いものだと思うからです。
・早く天国に行きたい!
クリスチャンの家庭で育てられた小さな子どもが、「早く天国に行きたい」と言っているのを聞いたことがあります。その子は、天国をテーマパークか何かのように思っているようでした。大人は、死後の世界を軽々には考えないでしょうが、苦しい現実から逃れるためには、天国に行きたいと思うこともあるでしょう。
しかしその場合、行き先である天国が文字通り「よいとこ」なのかどうかが問題となります。そこに行けたとして、期待通りの場所でなかったなら、取り返しがつかないからです。また、自分はそこに行くのにふさわしい者なのかどうかという点に悩む人もいることでしょう。
すべての人間は、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となってい」(ヘブル2:15)るのですから、第三の天にまで引き上げられて、「人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた」(第2コリント12:4)などと手紙に書くような人の話に強い関心を抱くのは当然です。
・天国というリアリティ
「きみが還る場所(90 Minutes in Heaven)」は、そのようなニーズに応える映画です。米国で、主人公の牧師が交通事故に遭って即死しました。4人の救急救命士によって死亡が確認されたのですが、その後奇跡的に生き返えったという実話を映画化しました。主人公が死んでいた90分の間、彼は天国に行っていて、それを後日話し出したのですが、映画にはその天国の情景が描かれていました。
永遠に神と交わる未来をリアルに知ることで、何を目指して生きるべきかが明確になります。「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在とな」(第1コリント15:19)ります。パウロは、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:13-14)と告白しました。それは、「世を去ってキリストとともにいる」(ピリピ1:23)という望み以下の何ものにも、拘泥しないで生きる姿です。
死後の世界を興味本位で詮索することはおろかなことですが、映画が紹介する証言よって希望を燃え立たせることは、意味のあることだと思いました(cf. 第1コリント15:35, 36)。確かに、復活のキリストに結ばれる幸せが福音の内容の一つです。そして、その「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」と宣言する生き方は、一途で迫力を伴うものです。
・天国は行くところ?
ところが、聖書は、天国は行くところではなく、むしろ来るところだと主張していると私には思えます。イエスさまは、「天国に行ってハッピーになれるように」ではなく、「御国が来ますように」と祈るようにと教えられました。地上で御名があがめられ、地に神の国がもたらされ、地でもみこころが行なわれること、これが私たちに与えられた天命です。その天命を遂行する者に、神の栄冠が用意されています。
そうすると、「早く天国に行きたい」という祈りを聞かれた主は、「いやいや、方向が逆でしょう、天国が地上に来るように祈れと教えましたよね。あなたの周りを見回しなさい。そうすれば、私があなたを地に送った理由がわかるでしょう。あなたのいる所に、私は、私の支配をもたらし、義と平和と喜びに満ちた世界にしたいのです」(cf. ローマ14:17)とおっしゃるのではないかと思うのです。
預言者ダニエルに未来の幻を示された後に、主は彼に語られました。「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(ダニエル12:13)終わりまで進むのはダニエルの責任で、休みに入ったあとに、彼に「分」を与えるのは主の約束だと解釈できます。その「分」、つまり義の栄冠を思い、そのような「分」を用意してくださる審判者を見上げるからこそ、最後まで、「勇敢に戦い、走るべき道のりを走」(第2テモテ4:7)ることができるのです。
・「来てください」と言いなさい
「神の王国が来るように」ということは、すなわち「自分の王国を明け渡す」ということです。私の人生という領地に、また私のかかわる領域に、二人の王が同時に存在することはできません。自分の将来を、意志を、夢を、夫や妻や家族を、財産等を、自分のものとして主張する権利をすべて放棄するときに、王が私の人生を支配し、私の人生を用いて地を統治なさいます。それが、「地を従わせよ」という人類に対する最初の命令に従う基礎なのです。
「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」(第1コリント16:22)が究極の祈りであり、「これを聞く者は、『来てください』と言いなさい」(黙示録22:17)と命じられています。その祈りに主イエスは、「しかり。わたしはすぐに来る」(黙示録20:20)と応じられます。「行かせてください」ではなく、「来てください」が正しい方向なのだと思います。
主イエスにお越しいただいて、全世界の王として主権と力を現わしてくださるようにと祈りましょう。一方、「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」と宗教改革者であるマルチン・ルターは言いました。明日、主が来られるかどうかはわかりませんが、今日もまた神が私に委ねてくださった神の国の働きを着実に一歩進めるというのが、「主よ、来てください」と祈る聖徒たちの、人生に対する態度だと思うのです。
福田充男